【寺町2丁目(旧桜畠六番丁)】
今から90数年前の話です。先日、昭和の作家井上靖さんが旧制四高時代に下宿していた旧桜畠6番丁の家を知人に教えて戴きました。うっかりしていると玄関前の見越しの松に頭をぶつけそうになってしまいますが、建物の一部がコンクリートのところもあるものの、概ね外観は原型を留めているそうです。一時、お医者さんが住んでいたそうで?見た目には、百年近く経た建物とは見えなく、素敵に年を重ねた品の良さが伺えます。噂によると金沢の観光ブームの先取りからか県外の不動産業者が触手を伸ばしたこともあり、地元のお寿司屋さんが購入し、旧町名の桜畠6番丁を活かし“桜畠楼“と命名したそうです。お寿司屋さんにお願いする室内を見学させてくれるそうです。
(旧桜畠6番丁の井上靖の下宿先)
(玄関の松が印象的でした)
(寺町大通りのお寿司屋さん・この向の小路を入ると桜畠楼)
この辺りは、上にかけて藩政期足軽の組地が繋がり、崖際は、市内も山も眺められる見晴らしの良いところで、武家や高僧の別荘地でした。大正期には、今も一部が残っていますが、鉱山王と云われた横山男爵家の迎賓館になっていましたので環境もよく、今も知る人ぞ知る隠れた散策コースです。
拙ブログ
寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園①②③
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11619162787.html
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11620918565.html
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11622959275.html
(近所で見られる、同時代の建物)
さて、井上は旧制四高に入学すると柔道部に入り、酒やタバコ、女も学業もそっちのけで、柔道に熱中したといいます。明けても暮れても下宿から広坂通りにあった四高の柔道場に通いつめ、インターハイ優勝に目指したそうです。四高柔道部のモットーは「練習量がすべてを決定する柔道」という言葉に小柄な井上は身内が痺れるような魅力を感じたと伝えられています。
(旧制四高の本館)
練習が終わると、夜は広坂から古い町を抜け、犀川に架かる桜坂を渡り、急坂のW坂を登る。この辺までは、1,3km位で黙々と歩けば約17~8分、後5分も歩けば下宿に辿り着けます。井上靖は長編小説「北の海」の中で、「腹がへると何とも言えずきゅうっと胃にこたえてくる坂」で「1年に入って、1学期の間は、毎日のように、この坂の途中で涙をだす」柔道部員であったが、「本当の四高生は俺たち柔道部員だけだ」という強引な誇りに支えられ耐えていたと書かれています。
(旧四高にある井上靖の記念碑・「北の海」の1節が刻んであります)
「北の海(きたのうみ)」は、井上靖の長編小説。昭和43年(1968)12月から昭和44年(1969)11月まで「東京新聞」などに連載されました。
W坂については、それまで郷里の狩野川が日本で一番美しい川だと思っていたが、「・・・・・いまの自分の目の中の収めている犀川の方が、一周り大きく、なんとなく品位を持っているような気がする。川瀬の音は美しく、いかにも淙々といった形容がぴったりする川である」とあり、冬、雪が降るとW坂から見渡す金沢の町は美しかった。と「北の海」には書かれています。
(W坂と金沢の町・犀川大橋の眺め)
拙ブログ
W坂と石切坂、そして桜坂
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12065023459.html
犀星におもいでの金沢を歩く
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11940249781.html
(W坂より桜橋と兼六園辺り)
改めて、井上靖に思いを馳せこの道を歩くと、あまり井上靖の小説を読んでいない私でも、読んでみたくなってきます。それより何より、この界隈は戦災に遭っていない金沢を象徴するように、約350年来の道も残り、旧町名が昔のままのところもあり、100年以上の建物や私の若い頃から有る建物、つい最近建てられたビルや住宅が混在し、新旧の建物が様式や時代性をのり越えて矛盾を感じながらも気にすることなく共存しているのが、何とも今まで云われている“金沢らしいさ”とは云い難いが、何やらこれからの“金沢らしさが見えて来る”ように感じられます。
「あるがまま」!!?四高的には「絶対矛盾的自己同一」!???
(旧桜畠辺り)
(お屋敷が連なる旧桜畠)
散策コース(案) 仮称「金沢の昔の道を歩く・90年前の井上靖の四高通学コース」 寺町2丁目バス停→旧桜畠6番丁→W坂→桜橋→中川除町→大工町→柿木畠→広坂→四高跡(現石川四高記念館)所要時間:約1時間半(約2km) |
(桜橋)
(大工町)
(柿木畠)
井上靖(いのうえやすし)
文化功労者、文化勲章受章。昭和2年(1927)金沢市の第四高等学校理科に入学。柔道部に入る。九州帝国大学法文学部英文科へ入学。昭和7年(1932)九州帝大中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学。昭和11年(1936)京都帝大卒業「サンデー毎日」の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。『闘牛』で芥川賞受賞。新聞小説作家として地位を確立する。主な著書に『あすなろ物語』『猟銃』『氷壁』『天平の甍』『しろばんば』『敦煌』『楼蘭』等。受賞多数。明治40年(1907)5月6日 ~平成3年(1991)1月29日。享年83歳。
(旧桜畠から旧四高まで・昭和29年の地図を下敷き)
参考文献:分壇資料「城下町金沢」磯村英樹著 昭和54年9月15日 ㈱講談社発行他