加賀藩御料理人伝説④4代目安通と鶴包丁
【加賀藩 金沢 江戸】御料理頭の3代目長左衛門安信は安永8年(1779)12月に病没します。生年不詳のため当然ですが享年は不明です。跡継ぎの知右衛門安通は、安信の生前、明和3年(1766)御料理人に出仕し、安永9年(1780)5月、知右衛門安通が父の遺知80石を拝領し、17年後の寛政9年(1797)7月、御料理頭の次の位置の役職御料理棟取になります。...
View Article伝説と史実そして今、金城霊澤①芋堀藤五郎伝説
【金沢兼六園】兼六園の金沢神社の傍に「金城霊澤」という泉があります。この泉には、金沢市の地名発祥伝説ゆかりの「芋掘藤五郎」にまつわる伝説があります。 (金城霊澤の伝説案内板)...
View Article金城霊澤の伝説と史実そして今③学校鎮守から竹澤鎮守
【金澤兼六園】今回は少し脱線して、前回も少し触れました金城霊澤の鎮守を名目で勧請された天満宮の成り立ちと竹澤御殿の造営により移築された竹澤鎮守(現金澤神社)に繋がる経緯、そして学校移転後、広坂に移った学校鎮守を史実の基づいて調べることにします。...
View Article金城霊澤の伝説と史実そして今④文武之学校
【金澤兼六園】前回同様、成り行きで鎮守繋がりから藩校(文武之学校)をもう少し続けます。文武之学校の建物は、棟札写によると寛政3年(1791)10月に起工、12月柱建、寛政4年(1792)2月に完成し、11代治脩公は「学校之定」の触を出し、寛政4年(1792)閏2月6日、「文武之学校」開校を宣言します。藩主の学校見分、助教・師範の任命等様々な経過を経て3月2日に学校が開学しました。...
View Article金城霊澤の伝説と史実そして今⑤金城霊澤と金澤神社その一
【金澤兼六園】金城霊沢と金澤神社の手水舎の水質は、小立野の河岸段丘及び旧扇状地堆積層からわき出た水で水脈は金澤神社と同じものであす。この水は、明治11年(1878)医学校教師オランダ人ホルトマン氏の分析によると、ほとんど混合物がなく、水にチオシアン酸カリュウムを加えると少しばかり血赤色を呈するほどの少量の鉄分が含まれているという。血の成分は鉄分で薬効があるということです。 (水のいわれ)...
View Article金城霊澤の伝説と史実そして今⑥金城霊澤の金澤神社|その二
【金澤兼六園】昔、逸人アリ。称シテ藤五トイウ。アラカネヲ山ニ採トリ。コノ水ニ淘汰ス。故ニ金沢ショウス。藤五、人ト為リ寡欲ニシテ、施ヲ好ミテオシマズ。ケダシ藤氏ノ藤五郎、京洛ノ汾華ヲ避ケテ、来タリテココニ棲遅ス。褐ヲ衣テ玉ヲ懐キ、名ヲ遁レ、アトヲ晦ウシ、人ノ知ルヲ求メズ。故ニ前史ノ徴スルニ足ル者ナシ。 中略 漢文訓読は黒本稼堂(兼六園全史より)...
View Article金城霊澤の伝説と史実そして今⑦金澤神社のみどころ
【金澤兼六園】金澤神社本殿及び拝殿:入母屋造、桟瓦葺も妻入で、正側面にはね高欄付の切目縁、正面に向拝を付けています。軒は三斗組で一軒半繁垂木、妻は虹梁(こうりょう) や豕叉首(いのこさす)...
View Article大正12年(1923)9月関東大震災②と米沢弘安日記
【金沢~東京】米沢弘安は、謡いや仕事柄茶道にも造詣が深い教養人で、また、旺盛な好奇心と暮らし向きにも余裕があり、当時、地元の地方紙北国新聞と全国紙報知新聞を購読し、新聞を読んだ後は近隣に回覧しています。(報知新聞は、明治5年(1872)創刊の郵便報知新聞が明治28...
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