【旧鶴来街道の寺院群】
この夏、私の“お寺参り”2ヶ寺目は、初代藩主前田利家公の長女幸姫(春桂院月照利犀)の嫁ぎ先、本家筋にあたる前田長種家(加賀八家前田対馬守家)の菩提寺です。この玉龍寺には、前田長種家代々のお墓が加賀八家で唯一、野田山ではなくこのお寺に有ります。このお寺の山門は薬医門で脇塀付きの桟瓦葺、造られたのは17世紀中期だと云われています。現在は、「野町保育園」が横に併設されていて、境内いっぱいに子供たちが遊べるようにアンパンマン、どらえもんや乗り物もあり、参詣の折も、水遊びの裸ん坊の園児が暑さにも負けず元気な姿を見せていました。
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(玉龍寺の境内)
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(境内での園児に水遊び)
境内も本堂は、掃除が行き届き、お金も手も掛っているよう感じられます。本堂の壁に掛る著名な版画家の「釈迦十大弟子」や大きな獅子頭の置物について一寸意地悪な質問にも、ご住職は「私の趣味です。」としながら、まともに受け丁寧に応えられ、笑いも誘い、お人柄が感じられる和やかな朝のひと時でした。ありがとう御座いました。合掌
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(ご住職に趣味の版画)
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(本堂の大きな獅子頭)
≪大亀山玉龍寺≫
永正11年(1514)、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)が、尾州前田庄で創建し桂厳慧芳禅師が開山を請け、その後、桂厳慧芳禅師は、大本山總持寺に享禄3年(1530)906世の住持を勤め御直末になります。その後、開基家の3代前田長種が加賀藩主前田利家公に仕え、玉龍寺は開基家に従い、尾州、越中守山、富山城、小松城、金沢法船寺町と各地を転々とし、最後に現在の鶴来街道の入口に3,000坪を拝領し、伽藍什器が完備しました。
(御直末とは、 直参(じきさん)の末寺(まつじ)だとか、 直参と云うのは直属するということで、
末寺とは本山の寺の支配下にあるお寺という意味です。大本山に直接支配される寺で、間に中本山などが入らなった格の高いお寺で、ご住職の言では玉龍寺は大本山總持寺の直参で、末寺に同じ旧鶴来街道の龍淵寺、その末寺に月照寺があるとおっしゃっていました。)
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(境内)
本堂には御開山桂厳慧芳禅師像を中心に、各位に寺宝があり、仏舎利塔は金色に輝き、その周りには四天王、天竜八部衆、十二神将の像が配置されています。
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(仏舎利塔)
泰澄大師の作と云われる烏枢瑟摩明王(うすさまみょうおう)は、桂厳慧芳禅師が拝請してからは玉龍寺の鎮守となり、その周囲には奉納された三十三間堂が祀られています。烏枢瑟摩明王は、烈火をもって不浄を浄化する明王として知られ、この烏枢瑟摩明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきたそうです。
(烏枢瑟摩明王(うすさまみょうおう)は「大威力烏枢瑟摩明王経」などの密教経典に説かれる古代インド神話で元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとします。幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏で、「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれています。明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる。)
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(玉龍寺本堂)
前田長種家(対馬守家)は、尾張時代から加賀前田家の本家筋に当たります。本家から2・3代前に分家した荒子前田家の前田利家公が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)にあり、最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となり、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となります。
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(前田利家公)
天正12年(1584)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城し前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首されます。本城下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家公を頼って能登に単身落ち延び、前田利家公は本家の御曹司、当時34歳の長種を迎え入れ、一門衆として家臣の列に加えています。
脱線:前田長種は、織田信長家臣だった2代目前田長定の嫡男で利家公の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列しました。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われています。長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は3代将軍家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたります。
利家公の期待に応えるように長種は武功を重ねていきます。特に部下掌握と共に、統治能力が優れていて、主には前田利長公を補佐するように行動を共にし、守山城・富山城・小松城と利長の城代を努めています。慶長10(1605)に加賀・能登・越中のほぼ全域が加賀前田家の所領となると、初代城代として小松城に入城しています。10年後の廃城まで努めており2万3千石を給されています。長種は小松城代を終えて金沢に戻った際には隠居料として5千石。元和2年(1616)金沢に戻って約1年で妻の幸姫が亡くなり享年58歳。長種も正式に引退しています。この際に直知(就任時5千石)に隠居領を合わせて相続させて1万石としています。この時が正式に人持組頭になった時で、加賀八家・前田対馬守家が誕生します。家督を譲って隠居し、寛永8年(1630)に亡くなり享年81歳でした。
(おわり)
参考文献::「加能郷土辞彙」日置謙編 昭和17年2月発行「金沢古蹟志7編」森田柿園著 昭和8年10月発行ほか