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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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大正3年(1914)夏、金沢市民の生活風景と世相!!

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【金沢市内】

今回は、金沢の最後の加賀象嵌職人といわれる米沢弘安大正3年(19148の日記を勝手に抜き出し、当時の市民の生活風景世相、そして、日記に散りばめられた懐かしい旧町名や寺社、そして、第一次大戦の宣戦布告において市民への情報や反応、その対応について拾ってみようと思います。

(米沢弘安は、金沢市上新町に生まれ旧宗叔町4番丁に住み、昭和3年(1928)第9回帝展に初入選、戦後は日本伝統工芸展に出品。金沢市文化賞受賞。昭和44年(1969)加賀象嵌で石川県指定無形文化財保持者に認定され、昭和47年(1972)国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選ばれる。)

 

 

(米沢弘安日記「上巻」)

 

時代背景

大正3年(1914823日には日本、ドイツに宣戦布告。同じ年の 1027日、人口が官報で発表され、全国総人口54,843,083人、石川県人口799,040人、金沢市人口129,265(大正9年)に、国内外では、日清、日露の戦争を経て、明治43年(1910822日には韓国併合条約が調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合します。一方では自由や平等を求める運動や労働運動が盛んになり、金沢でも給料の値上げや働くための条件を良くすることを求めて、箔職人、塗師、陶工、履物職人、製糸工、百貨店員、郵便局員など、多くの職種で議論やストライキが行われます。市内には電車が開通し、粟崎遊園や金石涛々園などのレジャー施設もできてにぎわい、香林坊には、映画館や百貨店、カフェなどができます。美術工芸関係では、大正3年(1914324日 大正博覧会美術工芸部門に、石川県から彫刻の吉田三郎、都賀田勇馬、陶磁器の中村秋塘、石野竜山、漆器の石垣昌訓らが入選し、大正14年(1925)パリ万博(現代装飾美術産業美術国際博覧会)では米沢弘安が名誉賞を受賞しています。主人公の弘安は、大正3年(1914)には27歳独身、ちなみに大正630歳で結婚し家督相続しています。

 

(旧宗叔町から金沢駅辺り)

(金沢の市電は、大正8年(1919)最初の区間が開業)

 

大正3年(19148月の日記

10日(月) 晴 ・昨夜10時帰宅、11時過寝し故に今朝は寝むい ・藤掛老母ハ此間より泊ニ来て居られし由なるか、今朝早く観音町へ帰られた ・八田様か見舞ニ来られた・午前8時、僕は挨拶に出る 小森様へ入り口より伺ひ、伊藤様も一寸寄り市役所へ行き帰りし事を告ぐ 山岡君も来られた 市役所を出て公園より尻垂坂の島田方へ行き、出品の事ニ付話す 山川様へ行き、棚ニ敷き縮緬をお渡せり 柿畠方へ一寸寄りて帰る・昼三時過迄寝た・午后四時、巴町木林へ東京より預かって来た銀瓶(直し物)を持って行く(銀下落とし十五銭□となれりとの話し) ・上野方へ横須賀ニ居る憲俊君より事傅った品を持って行く 又、能口方ニ永々病氣の嫁様、遂ニ不帰に客となられ、昨日葬儀なりし由を聞きし故に菓子手形を持ちてお悔ニ行く、・夜、水野様へ御礼ニ行く 此頃兄様の江波様が泊ニ来て居る由

 

:この頃には、日記を毎日欠かさず書くようになりますが、728日から89日まで、東京大正博覧会の後始末のため東京へ出張。此の間の日記ハ別に記す。727日の日記に記されています。出張帰りとはいえ、営業に家の雑務に忙しく働いている様子が伝わってきます。

(大正3年(1914 827日 の金沢市史年表には、東京大正博覧会の金沢市出品売上げは点数251点、金額4,839円(4,969千円)、また付属金沢市売店の売上げは点数18,569金額10,099円(現在の約10,372千円)であった。大正2年の旧大蔵省の試算では1円は約1027と書かれています。)

 

藤掛老母は母方の祖母・観音町は今年旧町名が復活した元東山1丁目・市役所を出て公園より尻垂坂は、広坂通り、兼六園、兼六坂・山川様、竪町か?・巴町は、加賀藩士伴八矢の下屋敷で家紋「左三つ巴」にちなむ。今、笠市町、安江町・水野様、金工の師匠筋水野源六家か?菓子手形、今のデパートの商品券のようなものか?)

(現在の浅野川大橋は大正11年(1922)に架けられる)

 

(現在の犀川大橋は大正13年(1924)に架けられる)

 

15日(土) 晴 ・本日の新聞ハ水害欧州戦乱記事にて埋められたり 東京に諸新聞、昨日及本日の分ハ到着せず ・母ハ純一を連れ長田屋、吉駒方へ林檎を持って行かれた(午前九~十一) ・田村様より亡母壱周忌として大万頭を貰った・八田様御出あり 御菓子を貰ふ ・父は、大久保様へ香炉返却ニ行かれた(后四) ・夜、名古屋へ菓子を贈る 清二は停車場へ持って行く ・夜僕は仙石町の教育館へ行く 元長町(高等)小学校同窓會ニ付相談會を開く 會する者十名餘 先生二ハ中越、高橋の御両名、會議の決果二十三日午后七時、馬場かさ(笠)屋ニ於いて懇親會を開く事ニ決し、各自會員ニ出席勧誘する事とし、十時半散會す ◎天皇陛下、時局の進展の為、本日日光御用邸より還幸あらせられ、直ニ御前會議を開かれ、帝国の態度を決せられる。

 

注:水害とは、8月13日の朝2時頃、富山県で大水害が発生し、富山市の3分の1が、七千戸が浸水し、神通川では、多くの橋は流され汽車の転覆または立ち往生する。また欧州戦乱とは、大正3年(1914)7月28日から19181111日にかけて、連合国対中央同盟国の戦闘により繰り広げられた後に云われる第1次世界大戦で、日本は、823日 にドイツに宣戦布告した。情報は新聞で、2紙を取り熱心の読まれ、殆ど疑うことがなかったようです。

仙石町の教育館、現在の香林坊1丁目の石川県教育会館か?・大万頭(葬式饅頭)は、弔事に提供される饅頭(万頭)の総称。金沢では酒万頭(小麦粉の生地に酒を入れて作った皮)で“万(よろず)の頭“と書いて饅頭と云う習わしがあります。吉駒、姉の嫁ぎ先で、今のにし茶屋街西茶屋資料館向かい光駒のとことか?御茶屋を経営していた。純一、姉すての子 清二、弘安の3歳下の弟父の弟子で同業)

 

(大正3年8月10日の日記)

 

20日(木)晴 ・大聖寺山田宗美氏より香爐蓋の催促の葉書が来た ・母は午后金子様と廣岡の尼寺へ参詣せられた 盆施餓鬼がありし由 夜は四万六千日の御詠歌ありて母は行かれた ・純一は、暑中休暇ニなると直く来て本日迄居た 夕食後宅に帰って行った ・夕、玉井君が来られたから又共ニ同窓會の勧誘ニ出掛け、堀川迄行き十時にかえる

 

註:文化文政以来金沢の人々は、宗派を超えて寺社に参詣しています。ここには廣岡の尼寺が出てきますが、弘安の父や母は、近くにあった真言宗の眞福院、臨済宗妙心寺派の高厳寺、泉寺町の曹洞宗一閑院、曹洞宗龍徳寺、野田の曹洞宗桃雲寺、田丸町の真宗大谷派専光寺、真言宗宝幢寺等へ涅槃会や法要があると出かけ、団体で高野山へも行っています。

(山田宗美、米沢弘安が私淑した人物で、1枚の鉄板から立体の花瓶や置物をうちだす独自の技術をあみだす。パリ万博、セントルイス万国博覧会、日本美術協会展などで受賞、帝室技芸員に内定していたが就任直前に亡くなった。 ・玉井君(玉井敬泉)、弘安の小学校以来の親友、日本画家で帝展に入選。以後、金城画壇を中心に活躍します。晩年は白山の国立公園化や、文化財の調査・保護、日本工芸会の創設に加わるなど文化行政に貢献した。)

 

25日(火)曇少雨 ・島崎様かんざしを取り来る ・夜父と清二、僕の三人天満宮へ参詣ニ行き、往路小林様方へ寄り腕を御返し、林檎を進上す 天満宮へ参詣後、直ニ鳥畠先生宅の鳥謡會へ行く 来會小森、千田、宮、白山、能口及清二、僕の少数にて熊坂、柏崎、三井寺を謡ひ、十一時散會せり

 

註:藩政期、加賀藩が奨励し明治2年(1869)まで続きた卯辰観音院の山王社に奉納する神事能が庶民で催うされ、以来、能が庶民に浸透していて、戦後しばらくまで、金沢のサラリーマンも通う町に謡いの会がありました。

(天満宮、通称天神さんと云われた瓢箪町の崇禅寺 ・鳥畠先生宅の鳥謡會、当時宝生流鳥畠師範を囲む謡曲の会「鳥謡会(氷室会)会員30人」弘安も世話人の1人でした。)

 

 

(弘安と清二)

 

拙ブログ

謡いが空から降る町②昔

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11511571432.html

 

31日(月)晴 天長節 ・今日は天長節なり 諒闇中とてニ式のみ上らる ・夜、宮崎様御出、灰皿蓋に彫して呉れとの注文 戦争談に花が咲く ・今夜千田君方で、奉納謡の残りを謡うから来いとの事であった 清ニは行き僕は行かな可った 勿論宮崎様の相手ニなっていたからだ △犀川大橋上ニ於いて相撲か三日間あって、今日は大関の日だ △毎夕新聞主催の提灯行列、今夜公園より出する

 

註:戦場がヨーロッパのためか、当時、金沢では相撲が立ったり、仕事のお付き合いの世間話に戦争談に花が咲いたり、お得意様のためか?世話人で有りながら謡いを欠席するなど、職人と商売の両立は今も昔も大変です。いつ仕事(手作業)をしていたのでしょうか?夜なべ?

(天長節、現在の天皇誕生日(大正天皇)にあたる祝日 諒闇中、諒闇(りょうあん)とは、天皇が、その父母の崩御にあたり喪に服する期間 単、絹や木綿地の夏せんじょうが物を単という。公園、兼六園です。提灯行列の天長節のためか?)

 

 

何しろ明治から大正、昭和と60数年、ほぼ毎日書かれた日記です。まだ全ては読んでいでませんが、読んだところと摘まみ読みのほんの一部を紹介します。この日記では金沢の大正時代の事だけでなく、頭もよくて真面目は職人が見る当時の世相を通して、現在とは視点が違う諸々な事が溢れているように思います。自分の活き方、生かされ方と照らして、教師であり半面教師でもある日記です。是非、この「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」を一読される事をお勧めします。

 

参考文献:「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」編集米沢弘安日記編纂委員会 金沢市教育委員会・平成153月発行

金沢市史年表 金沢100年大正昭和編 金沢市図書館

https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm


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