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大正12年(1923)9月関東大震災①と米沢弘安日記

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【金沢~東京】

今回の米沢弘安日記は、大正12年(192391日の関東大震災の日に焦点をあて、追っかけます。前回にも触れましたが、弘安は30(大正6年)で、表具師土方松平の長女芳野と結婚し家督を相続します。32歳で長女喜代が生まれ、翌年(大正9年)には弟清ニが分家(玄蕃町)し大正12年(1923828年結婚。弘安35(大正11年)で待望の長男弘正が誕生し、翌年には師匠で父の清左衛門73歳で亡くなります。

 

米沢弘安日記

明治・大正・昭和に活躍した加賀象嵌職人米沢弘安が19歳の明治39年(1906)から85歳でお亡くなりになる昭和47年(1972)に書き残したもので、明治41年(1908)正月中に読んだ書物で日記の必要性を知り、書き続ける事を決心し、それ以後、ほぼ毎日書かれています。日記の量は、69(400字詰め原稿用紙4336)。上巻、中巻、下巻、別巻の4冊にまとめられています。

 

時代背景

大正時代は、大正ロマン、大正デモクラシーという言葉で語られる反面、テロが横行していた時代でした。そんな不穏な空気の中で関東大震災が起きます。大正7年(1918)の米騒動を境に、第一次大戦の影響で物価がそれまでの約2倍に騰貴します。大正2年(1913)の1円は現在の1027の価値でしたが、大正15年(1926)の1円は現在の574の価値になります。米騒動後の大正7年(1918)に初めて爵位を持たない平民原敬が日本初の政党内閣を組織し、大正10年(1921)には、は卓越した政治感覚と指導力で「教育制度の改善」「交通機関の整備」「産業および通商貿易の振興」「国防の充実」4大政綱を推進します。しかし、普通選挙法に反対するなど、平民に期待された程の改革もしないまま、大正10年(1921114日、首相原敬は東京駅構内で暗殺されます。大正12年(1923には、原敬に続く加藤友三郎首相が在任中に死去し、その8日後の大正12年(192391日に関東大震災が起こります。金沢では、大正12年(192395日に、震災地の治安維持のため金沢の第9師団に出動命令が下り、歩兵第7、第36連隊将兵約2,5004日夜出発した。911暴利取締令違反の検挙が全国的におこなわれて、金沢広坂署は金沢金物商組合でトタン板などの値上げが判明し、組合役員を召喚して署長から厳戒した。1012日現在、金沢市内の震災避難者現在554世帯、1,176とあります。(県下全体では3,073世帯5,388人)

 

 

 

大正129月の日記

)は私的な記事()は公的な記事(新聞情報など)()は地元の記事(地元紙・誌など)

 

一日 土 晴・昨夜半より降りだした雨は、本日朝ハ猛烈ニ降った 其後ハ時々降り、夜ニ入りて晴れ上がった 三十数日目の雨で旱天ニ困って居た処とて、草も木も人も蘇生の心地せり 正午地震あり、昨年なき強震なり 午后二時頃にも微動ありき、震源地は未だ不明なると 東海道方面、最も被害大なるらしいと 電信不通の為判明せず ・清ニは、高木君と白山比咩神社へ参詣するとて寄り、朝食して九時頃行く 往路徒歩、帰路ハ電車で夕帰宅せり 芳野ハ弘坊を連れて林病院へ注射ニ行く 百日咳も今が絶頂らしい 光雪様より、昨朝つる子無事着の案内ありき 横濱の石井和雄様より、母かね代病死との案内あり 全く驚いた お父様が死なれてより一ヶ月とは経たないのニ、又お母様が死亡とは、実ニ不幸な子供達だ 今七人の子供衆ある様ニ思ふ、人生ハ實ニはかないものだ 本日正午、大野町より水上飛行機が金沢へ訪問飛行をして宣傳ビラを撒く

 

註:昨夜からの雨。ひと月ぶりの雨で安堵していたが、午後には地震が、やがて強震なるが、震源地は不明で、東海道方面が被害甚大というが、電信が不通でハッキリは分からないとのこと、弟清二は友人と九時頃に鶴来の白山比咩神社へ、行きは徒歩で帰りは電車(金名線か)を利用している。関東大震災当日ですが震源地の不明で、東海道方面、最も被害大なるらしいとの認識あり。

芳野、妻・弘坊、長男弘正大正11年生まれ・光雪様、長兄佐吉・11歳年上・名古屋在住・つる子、長兄の妻・林病院、現金沢市本町に現存・宣傳ビラを撒く、電信不通のため、震源地不明ながら震災のビラか?)

 

 

靖国神社境内に設置された仮設住宅Wikipedia)

 

二日 日 半晴 以下、二日~十日まで、日記の(関東大震災記事のみとします。

大惨事、昨日の地震の震源地は伊豆の天城山ともまた海中と云われて居るが、被害の區域ハ静岡、甲府、東京ニテ、横濱横須賀箱根ハ之ニ含まれる 東京ハ四十八ヵ所より火災起り、本所深川下谷浅草神田の各區ハ殆ど全焼せり 主なるものは三越呉服店、帝国劇場、丸ノ内ビルヂング、帝国ホテル、警視廰にて、宮城に飛火して危険ニ迫られたが軍隊之を消す 東宮殿下ハ赤坂離宮ニ、ヒ難せらる 午前三時下火となりしと云ふ 横濱も夜十時迄焼き盡し、全市灰となる 横須賀ニ海嘯起こり全滅との報あり 静岡付近ニハ紡績工場潰れ、四千の男女職工生死不明とはる 箱根温泉全滅し、伊豆下田ニ大海嘯の為六百戸流失せる等、持切り、案して居るが汽車、電信不通の為、どうする事も出来ない

 

註:この日の日記は、仕事の事、子供の病気の心配などが記され、他、横須賀や名古屋の安否についての記事が半分、後は上記関東大地震の記事に半部割いています。二日目ながら、被害状況や軍隊などの動員も含め、かなり詳しく書かれています。報知新聞の情報か・・・。

東宮殿下、昭和天皇の皇太子時代・赤坂離宮、現迎賓館赤坂離宮)

 

(現赤坂離宮)

 

三日 月 曇雨 日記に(関東大震災の記事のみとします。

大震災の報ハ聞けば聞く程に悲惨にて、男女老幼の屍体道ニ散乱し、消化家屋二十万ニ及び、二日は尚鎮火せず 東京、横濱ニ戒厳令をしき、東京にはだれも入れないと 尚徴発令も発布せらる 十四師団出、宮城ハ開放され、各地より巡査、憲兵、應援ニ赴く 大坂より船で食料を運ぶ 新内閣信任式、大混乱の午后五時行はれた 總理兼外務山本権兵衛、内務後藤新平、大蔵井上準之助、陸軍田中義一、海軍財部彪、農商務田健次郎、司法平沼騏一郎、文部岡野敬二郎、逓信犬養毅、鉄道山之内一次、賀陽宮妃殿下、山階宮妃殿下、火災の為薨去背らる(后、御無事と判明ス)松方老公傷いて遂ニ薨去された

 

註:この日は横須賀の姉の安否や知人の訪問で東京の被害の話、夜には仕事仲間が来て話しているが、半分以上は上記関東大地震の記事が書かれています。

戒厳令、戦争や内乱等非常時に、全国(一部地域)において通常の立法権、行政、司法権の行使を軍部にゆだねる非常法。新内閣信任式、第二次山本内閣。摂政宮還御のあと、閣僚のほか牧野宮内大臣、平田内大臣も列席、初の閣議を開いた。松方老公、明治期に2度(第46代)内閣総理大臣を務めた松方正義ならば薨去は大正13年(192472日、大正1293日の薨去記事は誤報か)

 

 

(つづく)

 

参考文献:参考文献:「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」編集米沢弘安日記編纂委員会 金沢市教育委員会・平成153月発行・関東大震災 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

金沢市史年表 金沢100年大正昭和編 金沢市図書館

https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm


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