【旧鶴来街道の寺院群】
小立野公民館では、現代のお寺参りと思われる”史跡めぐり“を何年も続けられています。初めは小立野寺院群のお寺を小立野校下から募った参加者で、お寺のご住職や郷土史家が寺の由緒やお寺にまつわる話を聞く会で、私が今まで続いけられたのは、分かり易い言葉で、宗派や仏法を聞くのが楽しみで、お参りをさせて戴いています。バスで福井や能登のお寺へ行くこともありますが、金沢市内は年に1回、卯辰山や寺町寺院群の2ヶ寺を巡るものです。
(月照寺でご住職のお話)
今年は、寺町寺院群の加賀八家の一つ前田長種家つながる禅宗の月照寺さんと同じく禅宗の玉龍寺さんにお参りに行ってきました。企画を立てるものにとってはネタが尽きない企画でもあります。
(月照寺の山門)
昔から金沢は人口のわりに寺院が多く、藩政期は市内の人口40数%が武家でしたが、明治以後、藩がなくなり武家では食えなくなり他に移り、真宗以外の武家のお寺は門徒が少なくなり、市民とのご縁も薄くなってきました。卯辰山に約40ヶ寺、寺町は70数ヶ寺、全市内では真宗も含め200数ヶ寺があり、それでも藩政期から大正、昭和の初めの庶民の日記を見ると、真宗門徒の家でも、年寄になると男女問わず、日頃の感謝とご利益を求め、他宗派のお寺を昼も夜も渡り歩いている様子が書かれています。
(昔、お寺参りは、お医者さんへ行く前に、お寺さんを信じ、より親しい間柄にあったように思います。立場の弱い人々は、弱いがために、お地蔵さんにお参りしたり、おまじないやお札をいただいたり・・・、医者が匙を投げたような重い病気は、なおのこと熱心に信仰し、迷信としてしまえばそれまでですが、何かに頼る気持ちには、それは無理もないことと思われます。お寺さんもまた一生懸命ご祈祷したり、時には仲人役、けんかの仲裁までなさったそうで、地域の人々の生き方や考え方に深い影響を与えたに違いありません。(元まいどさん一期 安島羊子氏の記述より)
(月照寺の賓頭盧(びんずる)さん)
(寺内社、九萬坊さん)
金沢では、藩政期すでに都市化が進み、そこに住む人々の中には、生活の不安や複雑多様な問題も内在するようになると、憑き物落としの寺院が繁盛する現象が起こり、様々な民間信仰が展開されました。金沢の町人は主に真宗ですが、種々雑多の諸問題については宗旨にこだわらず、特に藩の庇護の下にあった寺院では、藩財政の悪化から自立が求められたこともあり、文化・文政頃から盛んになり、密教系の寺院などでは、そのことにより信者の獲得や参詣者の誘引を図ったものと思われます。
金沢の民間信仰で、病気治癒祈願の主なものとして ・眼病→不動明王尊・歯痛→延命地蔵・観音菩薩・百日咳→薬師如来・下の病→川獺大明神・耳痛→大黒天・足の病気→仁王尊など |
(月照寺の本堂)
≪東光山月照寺≫
金沢の寺町寺院群にある曹洞宗のお寺です。月照寺は“藩祖前田利家公”と正室“まつ”との間の長女である春桂院(幸姫)の菩提寺で、貞享2年(1685)の由来書には慶安5年(1652)前田丹後長時が母春桂院月照利犀の牌所として六斗林に草庵を結び、恵学長老を住持とします。さらに、幼少の頃、越中守山城代の前田長種のもとで妻幸姫が育てた3代藩主利常公が、同じ六斗林に寺地を増加され大伽藍を建立されました。
(「轉法輪」の扁額、仏法を広げるという意味・元大乗寺に有ったもの)
現在、月照寺の本堂は明治4年(1871)六斗の大火により焼失したが同11年前田家の屋敷の一部を移築して再建したもので、月照寺の境内入口の多くの石仏は卯辰山にあった33体と鶴来街道にあった33体の観音仏を道路拡張時に引き取って安置したものだそうです。山門の前にある2体の石像は、出しなに気付き聞くのを忘れました。余り例の無い石像ですが、私に、また参詣の機会を作ってくれました不思議な石でした。
(山門の不思議な石像)
幸姫と前田長種は当時としては高年齢の夫婦ですが、夫婦仲は良かったと云われています。二人の間には長男直知・次男長時と二人の男子が生まれます。幸姫は、加賀藩初代利家公と松の間に生まれて10人の子供の中で一番最初に生まれた長女で、その珠玉の玉を前田家本家筋とはいえ前田長種に与えたのですから、利家公の期待と恩情が窺われます。
(利家公と松の結婚年齢は利家20歳・松11歳と云われており、幸姫が生まれたのは翌年で松が12歳と云われています。)
(石川県最初の代議士、遠藤秀景氏の顕彰碑)
拙ブログ
明治の金沢“政治結社”⑬遠藤が「憲政党」に・・・
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(つづく)
参考文献:「加能郷土辞彙」日置謙編 昭和17年2月発行「金沢古蹟志7編」森田柿園著 昭和8年10月発行ほか