【金沢城 金沢 江戸】
御料理頭は、父親の禄高は家督相続が出来るが役職の世襲はなかなか難しく、前回も書きましたが、元禄10年(1697)長谷川宇左衛門、森辰右衛門、原田市郎左衛門の3人が料理頭を命ぜられてから、元禄12年(1699)市川八郎左衛門が加わり四人役になりますが、以後三人役となります。明和2年(1765)闕職の期間を経て、その年から二人役になります。御料理頭は、約50人いた御料理人の中から2人と中々の狭き門、幕末まで約170年間に33人しか任命されていません。
今回は、幕末に御料理頭に任命された大友義左衛門。藩政初期の初代才三郎にさかのぼります。「藩国官職通考」によると加賀藩3代利常公の時代、料理人大友才三郎が切米40俵で召抱えられたと記されているらしい。元々才三郎は、加賀藩主の猟場粟ヶ崎村の隣村大友村の料理人で、当時、粟ヶ崎の猟場で捕らえた鴨等の獲物を藩主が食した時、料理を供したのが利常公の目にとまり、才三郎を料理人として登用したと伝えられています。
≪大友家家系≫ 初代才三郎(利常公時代)→2代治兵衛(次兵衛)(万治元年御婚礼料理人)→3代傳蔵(傳八)(預玄院様付料理人)→4代源之丞(預玄院様付料理人)→5代傳左衛門(上げ地拝領)→6代才三郎(「夢路のたどり」を書く)→7代義左衛門粂満(保定)(御料理頭)→8代三蔭(明治12年没) |
初代才三郎、大友村肝煎与兵衛の一族で、その後、藩政期を通してその一族が御台所付として常に登用が続けられました。(切米40俵)
(大友村与兵衛一族の御台所付きは、当時から大友才三郎家の他、弥助、弥次右衛門、鉄三郎などがいて、現存する子孫は弥助家のみだそうです。)
2代治兵衛(次兵衛)、万治元年(1658)5代綱紀公と松嶺院の御婚礼に料理人として仰せ付けられる。(切米30俵)
3代傳蔵(傳八)、大友家はこの時代に日蓮宗に宗派替え。藩政期から続く金沢の大友姓の各家は浄土真宗で、野町光専寺、木越光専寺の二ヶ寺。(切米35俵)
(3代傳蔵は、享保20年(1735)からが死ぬ元文2年(1737)まで、わずか2年仕えた預玄院(6代藩主吉徳公の生母)によほど気に入られたのか、傳蔵の法名は預玄院の「玄」を戴き“隆玄院”の院号を授けられます。大友家は、3代傳蔵の死から日蓮宗に宗派替え。)
4代源之丞、明和2年(1765)から元文2年(1737)32年間江戸駒込中屋敷で預玄院に仕え、預玄院死後、金沢に帰任。(切米30俵)
(預玄院は、加賀藩6代藩主吉徳公の生母・江戸駒込邸に居住し、98歳の長寿を全うします。江戸駒込蓬莱町に日蓮宗長元寺を深く帰依した。大友家の3代傳蔵、4代源之丞が仕える。)
5代傳左衛門、御料理人石黒理助の次男で、源之丞の末期養子。寛政11年(1799)天保3年(1832)新竪町に屋敷地拝領(切米35俵)
6代才三郎、学問好きで「夢路のたどり」尊経閣文庫所蔵を書き残す。他に料理書や写本、手控え多数。江戸で死去。天保3年(1832)9月20日に竪町(幸町15-30~31)の拝領地返上(切米35俵)
7代義左衛門(粂満)文化14年(1817)に生まれ、母は出産時に幼な児を残し死亡、義左衛門は生みの母をしりません。七人扶持で御料理人に召しだされ、切り米35俵を相続し24歳のとき、13代藩主斉泰公の御供で天保11年(1840)5月6日に帰国。安政5年(1858)42歳で御料理頭になります。父才三郎の学究心を受け継ぎ、生涯、長、短歌に優れ、国学者、書家として活躍した人物でした。(禄高80石)
8代三蔭(信叟)御料理人として五人扶持白銀五枚で召しだされるが、明治2年(1869)3月の御改革と5月15日の父義左衛門の死により、明治3年(1870)9月の御一新の組織改革で料理人の職を失い生まれ育った金沢を去ることになります。妙泰寺の過去帳には「明治12年(1879)12月14日、得解院三蔭日應居士 エン所蔵土」とあり、大友家直系男子は、ここで断絶したと思われます。
幕末に御料理頭を命じられた大友義右衛門と家系については、大友家の菩提寺妙泰寺の住職中屋隆秀さんの平成10年「大友久米満草稿」平成30年「加賀の歌人加賀藩御料理頭大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」を引用させて頂きました。
(づづく)
参考文献:「大友久米満草稿」平成10年10月発行 「大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」 中屋隆秀著 東山妙泰寺(石川郷土史学会々誌第51号抜刷)平成30年12月発行