【金沢城 金沢 江戸】
5代目は、寛政12年(1800)知右衛門安通の養子となり、享和4年(1804)9月に4代目が病死し、その年の12月(文化元年)に知右衛門の跡目を継ぎ、御料理人として召し出され遺知80石を拝領します。暫くは、表方(藩政期行政方の総称)をつとめたが、文化4年(1808)1月には11代藩主治脩公、文化11年(1814)8月には12代藩主斉広公の「御膳方定加入」をつとめ、文政10年(1824)には13代藩主斉泰公の正室溶姫の「御引移御膳所御打込」をつとめます。
(金沢城河北門)
(溶姫(やすひめ、ようひめ)文化10年(1813)3月~ 慶応4年(1868)5月。11代将軍徳川家斉の21女。13代加賀藩主前田斉泰公の正室、諱は偕子(ともこ)、院号は景徳院(けいとくいん)。12代将軍・徳川家慶の異母妹で13代将軍徳川家定、14代将軍徳川家茂の叔母。)
(東大赤門・加賀藩江戸上屋敷御守殿門)
文政11年(1825)7月、御膳方棟取役。文政12年(1826)7月に御膳所御振分になり、溶姫の定役棟取をつとめた。文政12年に「御膳所久々入情相勤」に「御料理頭並」になり、天保元年(1830)1月、溶姫妊娠につき、御規式方御用を仰せ付けられ、20石加増、計100石となります。
(安政期の絵図・石川県立歴史博物館蔵)
(「諸頭系譜」によると、「御料理頭」に任じられた者は、元禄10年(1697)の長谷川宇左衛門と森辰右衛門、原田市郎左衛門、元禄12年(1699)に市川八郎左衛門か加えられ4人。享保10年(1725)以来定員が3人になり、明和2年(1765)には闕職(けっしょく)になり、その年、大杉源左衛門が命じられ、翌年、明和3年(1766)の3代目舟木長左衛門安信以来定員が2人になり、以後2人に定着したといわれています。「御料理頭」という役職は、幕末まで33人しかいませんが、幕末、それに準ずる役職として「御料理頭並」という役職が出来、以後3人いますが、その1人が5代目伝内光顕です。その当時、「御料理頭」の定員が2人で、欠員がなかったのか、歳が若かったのか、推測にすぎませんが、加増されて舟木家ではじめて100石になっているところから見ても、もう少し長生きすれば「御料理頭」なっていたものと思われます。)
五代目伝内光顕は、養父か早く亡くなったため、文政11年(1825)7月、御膳方棟取役になるまでに、以下の御料理人から書写で相伝されたもの思われます。文化元年(1804)に「調飪禁忌弁略」を石黒孫四郎が相伝し、文化8年(1812)藤村忠左衛門に「四季三段献立」、石黒半六に「鳥之切揃」、「四條園部流包丁切揃之巻」「御喰初写口伝」文化10年(1814)藤村忠左衛門が「包厨調飪禁忌」を相伝したものと思われます。さらに文化14年(1817)4月、四條流総本家高橋宗芳の門人になっています。四條流の包丁を舟木家2代、3代、4代、5代が伝授し、加賀藩の御料理人師範方をつとめています。
(当時は、舟木家の者が関与した料理書は「伝書」があり、書写で伝わったもので公刊されてものはありませんでした。)
(舟木家家紋・丸に四方入花菱)
5代目舟木伝内光顕(生年不詳~舟木平六の3男寛政12年(1800)に4代目安通の養子~弘化3年(1846)12月病死、妻は組外中山遊山の娘、安政5年(1858)11月病死。
(金沢森山・浄光寺)
嘉永期の「士帳」(近世史料館)によると、
家紋「丸に四方入花菱」役職「御料理頭並」宗旨「一向宗浄光寺」禄高「百石」舟木伝内 住居百姓町後
(現幸町・百姓町後の住居跡)
6代目伝内忠之も養子で、組外関弥左衛門3男、弘化元年(1844)12月、5代目伝内の跡目となり、遺知100石を相続。御台所御用を仰せ付けられ、弘化3年(1846)12月2日「御丸御広式御膳所加入」弘化4年(1847)5月「御守殿御膳所定役」を仰せ付けられ、安政2年(1855)7月「定役」免除され、安政4年(1857)「知事様御婚礼御式正方御用主附」安政6年(1859)1月「御守殿御膳所再役」万延元年(1860)3月「金谷御広式御膳所定役」を仰せ付けられます。
以後、慶応元年(1865)5月に本組与力となり御料理師範方は御料理頭青木良左衛門に引き受けてもらい、以来、御料理人としての役職は付いていません。
(金沢城の日没)
六代目舟木伝内忠之は、文化18年(1817)生~没年不詳)妻は組外杉村助太夫の娘、生没不詳。舟木家の明治維新の消息について私には知る由もなく、今回で舟木家は終わります。
(つづく)
参考文献:「包丁侍舟木伝内」陶智子・綿抜豊昭著 株式会社平凡社 2013年10月9日発行 加賀藩料理人「舟木伝内編著集」大友信子・川瀬康子・陶智子・綿抜豊明昭編 桂書房 2006年4月25日発行 「大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」 中屋隆秀著 東山妙泰寺(石川郷土史学会々誌第51号抜刷)平成30年12月発行