Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

加賀藩御料理人伝説⑦大友義左衛門のもう一つの名前粂満(くめまろ)その一

$
0
0

【金沢城 金沢・江戸・京】

幕末の御料理頭大友義左衛門は、通称義左衛門、諱は保定 、字は子固、名は粂満(くめまろ)蓬堂・蓬壷(ほうこ)と号し、歌人、国学者、書家としても知られていました。歴代の御料理人には舟木伝内を始め、教養があり筆が立つ者も多く、当時も御料理人は、手先が器用で、料理の腕を磨くだけでなく、材料を知り、料理のレシピも読み、また、常に料理を考案するのも仕事で、しかも、身分は足軽並から、事の次第によって御歩並に、腕がよく、指導力と運が良ければ、平士並の知行取り御料理頭にも出世できたといいます。 

(金沢城)

 

義左衛門は「元治の変」で粛清された後に残る数少ない勤皇派でもありました。慶応3年(1867)の王政復古の際は、御料理頭の義左衛門は、14代藩主前田慶寧公の上洛に随行します。慶寧公は望んだ諸侯会議による公議政体路線での政局が進まず、加賀藩自体は蚊帳に外に置かれ、国許の年寄は佐幕派で、事の重大性が理解できず、慶寧公等は上洛の3日後に京を離れます。役職上一緒に帰国すべき義左衛門は、京に残り京都詰家老前田内蔵太のもとで働きます。

(13代藩主前田慶寧公)

 

(加賀藩の京都の宿舎・建仁寺)

 

義左衛門は、前田内蔵太のもとで、公家などの接待兵糧の手配などを行いながら、京や大阪などの情報収集を行っています。当時、慶寧公は幕府の従うことは藩の存続にとって危ない事態になる事を危惧し、義左衛門ら勤皇派を京に残したものと思われます。御料理頭大友義左衛門は、幕末に迷走する加賀藩にあって勤皇派を貫き、京の情報収集に奔走しています。

 

(粂満の歌と書)

 

歌人としての大友粂満(くめまろ)は、生涯に、短歌5,500余首、長歌200余首を詠んでいいます。「石川県史」第三編「歌壇の隆盛」の項に、「天保中橘守部の金沢に寓するや、大友粂満、石黒千尋等之に就きて守部独自の歌調に倣い、欺界将に活気の横溢(おういつ)せんとするものありき」とあり、また大友粂満の項には「…前略…粂満橘守部に従いて和歌を学び、また書に巧に、殊に大字に長ず。その門人すこぶる多く、名声一時高し。明治25月没す。享年五十三、その歌集「逢壺集(ほうこしゅう)」といふ」とある。その他、「加能郷土辞彙」「金沢墓誌」などに紹介されていいます。

 

橘 守部(天明元年(1781)旧暦48日~ 嘉永2年(1849)旧暦524日)江戸後期の国学者。伊勢国朝明郡小向村(現三重県朝日町)の庄屋の家に生まれ、通称は飯田元輔・源助。号は池庵・椎本・生薬園など。 父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、「古事記」より「日本書紀」を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩主松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけて普及し機業家などに門人を広げた。

 

石黒 千尋 (文化元年(1804)旧例916日~明治5年(187285日)加賀金沢に生まれ、加賀藩の物頭役を務め、嘉永5年(1852)、明倫堂国学講釈御用となり、田中躬之とともに教授の任に当たる。尊王の大義を抱くととともに、海外の事情にも通じ、嘉永6年(1853)、アメリカとロシアの軍艦が来航した際、外国との通商を主張、攘夷論に対して通商交易は列聖の遺猷であり、国体の大本なることを論じた。維新後、皇学講師・文学講師となる。 田中躬之に国学を、平田篤胤に神典・国史を学ぶ。また天保年中、金沢を訪れた鈴木重胤と深く交際し、また橘守部に和歌を学んだ。著作に『近世諸蕃来舶集』『来舶神旨』がある。(参照:国学者伝記集成. 続編、 神道人名辞典、 和学者総覧)

 

 

(大正14年の北國新聞の墓碑発見の記事・大友粂満草稿より)

 

大正14年(1925711日の北國新聞に「義憤迸(ほとぼし)る勤皇の歌、5000を詠んだ大友粂満、烟硝倉で墓碑を発見」と墓碑の写真と共に大きく掲載された。この烟硝倉とは、十一家共同墓地のことであり、墓は門人によって建立された。墓石には「粂満墓」と刻み込まれ、粂満の墓をとり囲むかのように門人の墓がならんでいたとも言われているが、今は不明である。とあるます。

 

 

(大友粂満草稿)

 

この記事によると、幕末、大友粂満は実力ある歌人であったが、越後の歌人良寛相馬御風が、越前の橘曙覧(あけみ)正岡子規によって世間に紹介されたが、当時、大友粂満を熱心に考証する人がなかったらしく、良寛、橘曙覧は、民間の中に基盤を置いていたが、大友粂満は武家社会に基盤を置いていたため、明治維新の武士階級の崩壊と共に、生活の糧を求めて各地に移住した武家も多く、この事から大友粂満が世に出る機会を失う事のなったものであろうと、筆者は推測されています。

 

日かけさす 

大城いらか 

かかやきて

四方に春しる

朝かすみかな

 

明治維新の正月、朝日に輝く金沢城と日本の曙を詠んだ粂満の歓喜の歌で、あとで書きますが、この日を願いつつ悲運に果てた同志への深い思いをこめて詠んだ歌であると思えます。

 

上記、歌人としての大友粂満は、平成10年(199811月の北国新聞の石川郷土史学会会員の大友功氏の「大友粂満百三十回忌に寄せて」の上、下を引用しました。

 

(つづく)

 

参考文献:加賀の歌人「加賀藩御料理頭大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を向けて」石川県郷土史学会々誌(51号抜刷)」中屋隆秀著 平成3012月発行


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles