【金沢城 金沢・江戸・京】
大友粂満は歌詠みで勤皇の士。慶応3年(1867)旧暦12月28日、京の急変を藩に伝えるため、粂満は、風邪をおして険しく冬は極寒で雪深い難所、木の芽峠を命がけ越えています。翌1月初めには国許金沢に着く予定で急いでいました。その頃、藩の上層部は京の勤皇派の情報は無視し、前藩主斉泰公、八家の本多政均らの佐幕派による藩論は徳川支援を固め、1月10日には、村井又兵衛の第一陣が幕軍支援のため金沢を出陣し、一方、朝廷側からも7日、11日に藩主慶寧公の上洛を命じてきます。
(金沢の暮れ)
(戊辰戦争:慶応4年(1868)旧暦1月2日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。旧暦1月3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、京都の南郊外の鳥羽と伏見で、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と幕府軍は戦闘状態となり、鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍は3倍の約15,000人と言われている。)
梅さかん 伏見の里に 思いきや
火花をちらす 春ならんとは
山代や 鳥羽田の面の 春の雁
思わぬかたによると 鳴くらし 粂満
(京)
幕府は、慶応4年(1868)旧暦1月9日江戸において加賀藩に出兵を求めますが、その時すでに将軍徳川慶喜は、大阪を脱出して開陽丸の船上にあり敗軍の将、将兵も疲労困ぱいし、江戸に向かって敗走していました。旧暦1月12日徳川慶喜は江戸に帰り、ようやく加賀藩は勤皇に組みすることが決定し、幕府に組みして越前まで進軍していた加賀藩の兵は一度金沢に引き返し、藩論を覆され政府軍に組みし幕府軍壊滅を目指し行軍します。
難波潟 ひくうなしほに 誘われて
いつこの浦に 舟なかしらん
難波かた 短きあしの心より
君が舟出の行へかなしも
力なき音そ聞ゆる此春は
千代田大城の松風の声 粂満
(難波潟=現大阪港、ひくうなしほ=引き潮、舟なかし(流)らん)
明治2年(1869)の春、金沢城中において維新後初めて藩主(慶寧公)は年頭の賀を受けますが、加賀藩最後の年頭の賀でした。
(金沢城二ノ丸御殿)
明治2年(1869)の春大殿の御前にて“千歳の隺とき給わり”て・・・
(維新後、最後の年頭の賀で、長生きするという料理を頂戴して・・・詠む。)
我君の千代のよわい(齢)
をとりはやす(祝う)
隺の嘴よりかそ(数)へ
はし(始)めむ 粂満
この歌は粂満にとって、宿願であった明治維新を迎え、大殿の前で晴れやかに歌い上げたものと思われます。この年5月15日、粂満は53歳でこの世を去りました。以上大友粂満に付いて述べてきましたが、加賀藩の御料理頭、歌人の顔にとどまらず、謎の多い人物であり、歌集「逢壺集(ほうこしゅう)」をもっと解読していけば幕末の加賀藩の状況をはじめ新しい発見もできそうであり、今後さらに研究したいと思っている。と筆者大友功氏は結んでいます。
(金沢の夜明け)
(「逢壺集(ほうこしゅう)」とは、粂満が生涯に詠んだ長歌、短歌など5,700余首を四季、恋、雑に分け、古学舎が明治3年(1870)粂満の一周忌によせて編纂したもので、古学舎とは、高橋富兄(1825~1914)のことで、国学を田中躬之に学び藩校明倫堂の皇学講師で、廃藩後は第四高等学校教授に任じられています。その「逢壺集」の中で、文久元年(1861)粂満46歳の時、若い時は多くの歌を詠み捨てたが、今思えばどんな歌でも書き置くべきだったと反省している。この詠み捨てた歌も加えれと実に驚嘆する数になる。)
(金沢城・丑寅櫓の石垣)
上記、歌人としての大友粂満は、平成10年(1998)11月の北国新聞の石川郷土史学会会員の大友功氏の「大友粂満百三十回忌に寄せて」の上、下を引用しました。
(つづく)
参考文献:加賀の歌人「加賀藩御料理頭大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を向けて」石川県郷土史学会々誌(第51号抜刷)」中屋隆秀著 平成30年12月発行