Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

加賀藩御料理人伝説⑨元治の変で切腹した青木秀枝(新三郎)

$
0
0

【金沢・江戸・京】

悲運の勤皇藩士料理人青木秀枝(新三郎)は、前出の大友粂満の文章や歌に詠まれています。大友粂満とは、橘守部(養子冬照)に学んだいわゆる同門。御料理人としては17歳下の後輩で深い親交があったことが窺えます。秀枝は、天保4年(1833)旧暦626日生まれ。家は代々加賀藩の料理人で、父は、百石取りの御料理頭青木良左衛門で、秀枝は、七人扶持で嘉永元年(184815歳の時、召し出されています。

 

(春の金沢城石川門)

 

国学を加賀藩の田中躬之の教えを受け早くから志士と交流があり、尊王攘夷運動に加わり、元治元年(1864)世嗣前田慶寧公にしたがって京都に行き、七卿と長州藩のために尽くしたことにより元治元年(1864)旧暦1019日、自刃を命じられ、篠原家に預けられれ切腹して果てます。享年32歳。

 

(青木秀枝は、元冶元年4月藩主父子に上書して尊皇の大義を論じた。 元治元年5月世嗣前田慶寧公に供奉して上洛。上洛すると、長州藩や七卿のために奔走。 禁門の変の当日、前田慶寧公に従って帰藩の途中、逮捕され、元冶元年旧暦1019日自刀を命じられた。)

 

(建仁寺の庭・加賀藩の京の宿舎)

 

(罪状は、堂上方(昇殿を許された公卿・殿上人の総称。官人を出す家柄の総称。)に立ち入り、長州藩との交流し、主命を矯(た)めて長州藩士小島弥十郎を助けた罪。)

 

七卿落ち:文久3年(1863)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した818日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びます。七卿は、三条実美27歳:従三位権中納言)・三条西季知53歳:正二位行権中納言)・四条隆謌36歳:従四位上行侍従)・東久世通禧31歳:正四位下行左近衛権少将)・壬生基修29歳:従四位上行修理権大夫)・錦小路頼徳27歳:従四位上行右馬頭)・澤宣嘉28歳:正五位下行主水正)

 

 

(兼六園にあった「加能維新勤王記念標」太平洋戦争で金属回収で供出、現なし)

 

禁門の変(元治の変・蛤御門の変・元治甲子の変)

文久3年(18639月、朝廷は前田斉泰公に京都に警護のために上洛を命じますが、加賀藩は幕府の意向を窺ってなかなか応じませんでした。8ヶ月後、世嗣前田慶寧公が藩主代理として藩兵を率いて上洛すます。818日の政変で京都を追われた長州藩のために、斡旋の労をとりますが、結局長州藩は進発論に傾き、禁門(蛤御門)の変と起こすことにあり、世嗣前田慶寧公は病気と称して京を離れ、加賀藩領である近江の海津に退きます。このことが、加賀藩を苦境におとしいれることになり、藩主前田斉泰公は朝廷と幕府の両方に対し陳弁し、世嗣前田慶寧公を幽閉し、世嗣前田慶寧公の側近の松平大弐を海津で切腹させ、他の勤王派と目される藩士四十数名を死刑・禁獄・流刑などに処せられる。いわゆる、加賀藩の「元治の獄」です。これで加賀藩の勤王派はほぼ全滅となります。不破富太郎、千秋順之助、大野木仲三郎、青木新三郎等は国許に帰り、重臣の預かりとなり、そこで切腹し、他、多くの側近たちが斉泰公や本多政均らの手によって処罰されています。一説には、慶寧公は尊皇攘夷派と親しかったため、それを苦々しく思った斉泰公が弾圧したのだという。慶応元年(18654月、慶寧公は謹慎が解け、慶応2年(18664月、14代藩主となります。

 

(石川門)

 

拙ブログ

大弐が死んで、何と庄兵衛

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11308900520.html

 

(「加賀藩勤皇始末」野口之希著 明治241月)

 

大正8年発行の「金澤墓誌」には、野田山共有墓地後割乙四四八に墓碑ありと書かれ、墓誌には、以下の解説が書かれています。

 

野田山共有墓地後割乙四四八秀枝通称新三郎藩の料理人たり廔藩主斉泰、世子慶寧に従ひて江戸に往き橘冬照(守部の養子)に従ひ国史律令及び万葉集を安政四年明倫堂で国学を講ず千秋順之助等諸士と勤皇説を唱へ藩主に上書し勤王の大義を論ず既にして慶寧に従い京師じ至り諸藩の志士と交わる慶寧京師を退去するに及び藩之を責め従士を刑に行ふ、秀枝亦捕へられ命に依り屠腹す。年三十二、後正五位を贈らる

「金澤墓誌」和田文次郎編 加越能史談会 大正86月発行

 

P.S

長々と加賀藩の御料理人に付いて書いて来ましたが、少しその思いを記して終わりにします。最近、東山の妙泰寺の住職中屋隆秀さんから「加賀の歌人加賀藩御料理頭大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」の史料を戴いたこともあり、また、昔見た映画「武士の家計簿」による事もありますが、なんといっても心を動かされたのは、今年に入り図書館で何気なく手にした「包丁侍舟木伝内」が金沢学院大学の陶智子先生の著書で、合わせて先生は平成24年(2012)にお亡くなりになっていた事を知ったことでした。思えば、平成20年(20086月、私が所属する観光ボランディアガイド「まいどさん」の研修で「金澤料理秘伝帳」の講演を戴いたことが過ぎります。お話はそれまでに聞いた事もないものでしたが、その日のお姿は、初夏に合わせ、白っぽい絽の着物姿で登壇された事が目に焼き付き忘れられません。個人的には、お話したことは御座いませんが、もっとお話を聞きかせて戴ければと残念でなりません。後に知ると、ご先祖は金沢の方だとお聞きしご縁を感じています。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

参考文献::加賀の歌人「加賀藩御料理頭大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を向けて」石川県郷土史学会々誌(第51号抜刷)」中屋隆秀著 平成3012月発行「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)「金澤墓誌」和田文次郎編 加越能史談会 大正86月発行 「加賀藩勤皇始末」野口之希著 明治241月 石川県士族野口之希 発行兼編輯人


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles