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伝説と史実そして今②金城霊澤御勧請天満宮鎮守御造營御棟札

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【金澤兼六園】

関屋政春古兵談の記述を要約すると、昔、小立野台の尾崎を掘り切りって金沢城としたと書かれています。これを尾山と云ったと有りその掘切を蓮池と云うと書かれています。今の兼六園金沢城石川門の間の百間堀のことで、さらに蓮池より広坂堂形跡(しいのき迎賓館)へ廻る角に古清水があり金銀の雲母のやうなものが常に涌き出ていたので、この辺りを金澤と言ったと或る老人が語ったと書かれていますが、延宝の金澤図を見ると、今の金澤神社(兼六園の東南端)の辺りが正しい。博伽雑談(加能郷土辞彙参照)には、金澤とは蓮池御殿の辺り横山山城守の揚地で、清水が流れ出て水が金色に輝く、それで金澤と云ふとあり、また、享保19年(1734)の有澤武貞(加賀藩士・甲州流の兵学)が金澤細見図譜に、城の名を金澤城と称する事は、今、本多氏の屋敷(石川県立美術館)の向かいの明地の内に澤あり。これを金澤と云うなりと伝えられている。と記載されています。

 

(延宝の金澤図)

 

(関屋政春:元和元年(1615)生まれ。美濃の人。寛永10年(1633)加賀金沢藩3代藩主前田利常公に仕え、明暦のころ江戸で山鹿素行に学び兵学を講じ、利常公の子利明の侍講をつとめた。5代藩主綱紀公の代に先筒頭。貞享2年(168512月死去。71歳。通称は新兵衛。著作に「乙夜之書物」「政春古兵談」。)

 

 

(金城霊澤の宝造形瓦屋根)

 

拙ブログ

小立野から香林坊へ、廣坂(ひろさか)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12391952661.html

 

下記の図は、学校創設前の略図で本多旧邸宅(現石川県立美術館)の向かい角で、腰掛の傍らに、建設前の金澤神社境内の金洗澤(金城霊澤)があります。この地は金澤の地名起源の名蹟で、藩政初期に、横山山城、横山右近、奥村河内の第(邸宅)に賜るが、この3邸宅は元禄9年(1696)に揚地になり、その後、数10年は閑地になり、学校造営工事は寛政2年(179010月に始まり、寛政3年(179122日に完成します。

 

(金城霊澤の扁額)

 

下記の図は、学校創設前の略図で本多旧邸宅(現石川県立美術館)の向かい角で、腰掛の傍らに、建設前の金澤神社境内の金洗澤(金城霊澤)があります。この地は金澤の地名起源の名蹟で、藩政初期に、横山山城、横山右近、奥村河内の第(邸宅)に賜るが、この3邸宅は元禄9年(1696)に揚地になり、その後、数10年は閑地になり、学校造営工事は寛政2年(179010月に始まり、寛政3年(179122日に完成します。

 

 

学校創設前の略図・兼六園全史より)

 

加賀藩の藩校

藩校造営の構想は元禄41691)年に綱紀公が「大願十事」1つに揚げたのが始まりで、その願いを実現しようとした10代重教公は果たさず死去し、11代治脩公になってようやく、その実現を見ました。

 

明倫堂は、素読(個別授業・8歳入学、卒業14歳)、会読(講習・15歳入学、卒業23歳)、講読(公開講釈・一般士民の教化)の3課で、学科目は和学、漢学、医学、算術、筆道、習礼、歴史、天文、暦学、詩文、法律、本草学等多彩でした。天保10年(1839)には、素読の教科書である儒書が123種であったものを四書・五経に限定縮小、会読を身分、成績、年齢等を考慮し組分けするなど教導の効率化と一般成人教育の充実を図っています。経武館に関しては、開校当初、稽古人の心得を掲げた定書と天保10年(1839)に師範および、門弟等の武術の鍛練を目的に制定した規則を示しています。開校当初は剣、馬、居合、弓、鎗、軍螺、組打、柔、体の各武術で、天保10年に鎌玉術を加えています。)

 

 

(安政の町絵図)

 

大成殿

学校御鎮守は、初め江戸の湯島聖堂のような儒教の大成殿(孔子廟の正殿)を計画しますが、何故か途中から予定の場所も金洗の澤に近くに移し、学問の神様であり前田家が御先祖とする菅原道眞を祀る天満宮に変更になりっています。この祠は寛政5年(17939月に造営を命ぜられ、翠6年(17943月に落成、菅公の神像を勧請し、相殿に稲荷の神霊が祀られ、田井天神(現椿原天満宮)の神職高井長眞が神式をすすめたと云われています。

 

(学校造営計画は5代藩主綱紀公が元禄4年(に書き残した「大願十事」のなかでその構想をかかげたことに始まり、9代藩主の前田重教公は藩士の思想改善をかかげ、儒学の古典である経書を教えていたが、10代藩主の前田治脩公がその意志を受け継ぐ形で、その学校の造営となりました。江戸の「寛政異学の禁」の流れもあり学校設立になったものと思われます。注:寛政異学の禁とは、寛政2年(1790)旧暦5月、江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問の統制。)

 

 

(棟札・兼六園全史より)

 

≪金城霊澤御勧請天満宮鎮守御造營御棟札≫

昭和50年(197512月、金沢神社の棟札が郷土史家北村魚泡洞氏により発見されます。この棟札によれば、脩治公は金城霊澤(金洗澤)の鎮護のため、天満宮と稲荷神、命婦神の社を造営するよう厳命し、上記のように寛政5年(1793)に神職に相談し場所を決め、学校の鎮守と限定せず、学校の敷地内にあった金洗澤(金城霊澤)の鎮守としたのであろう。金洗澤は金澤の地名起源に関わる霊地であるので、金澤、あるいは加賀藩そのものの鎮守としての意味が込められていたのだろうと、「兼六園を読み解く」の著者長山直治氏がお書きになっています。

 

 

(金澤神社の鳥居)

 

文政6年(182311月に成立した冨田景周の「金沢紀事」によると、最初に11代治脩公が学校を設けた際、金洗澤の由来を調べて霊水である事を知り、それを人々の示そうとして、竹の柵で囲い鎮護するため、天満宮を造営したのであろう。その時「金城霊澤」と命名されたと思われます。そして12代の斉広公が文政5年(1822)に沢の底に板石を敷き、15尺(約4,5m)宝形造りの瓦屋根で覆い、周囲に木の柵を設けて、清浄を保ち、金沢城の鎮護としたという。

 

 

 

参考資料

PDF】明倫堂・講武館等之図

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=2ahUKEwilpfOv8YjjAhUZa94KHWjhAHUQFjAIegQIBRAC&url=https%3A%2F%2Fwww2.lib.kanazawa.ishikawa.jp%2Fkinsei%2Fgakkou2.pdf&usg=AOvVaw3uo8id8SXy7yZwtdw8nlsL

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行「兼六園を読み解く」著者長山直治 桂書房 200612月発行


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