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金城霊澤の伝説と史実そして今③学校鎮守から竹澤鎮守

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【金澤兼六園】

今回は少し脱線して、前回も少し触れました金城霊澤の鎮守を名目で勧請された天満宮の成り立ちと竹澤御殿の造営により移築された竹澤鎮守(現金澤神社)に繋がる経緯、そして学校移転後、広坂に移った学校鎮守を史実の基づいて調べることにします。

 

 

 

(学校の敷地は、当初「金谷御門向上地(現四高記念公園辺り)が想定されていましたが、結局、今の兼六園の地に建てられました。前回も書きますが、この地は延宝期には横山・奥村等の加賀藩の重臣層の屋敷地となっていました。屋敷地は元禄9年(1696)頃まで続きますが、その後、藩命で寛政5年(1793)文武之学校が出来るまでの97年間は火除地として空地となっていす。文学校の「明倫堂」は現在の兼六園の千歳台辺りに、武学校の「経武館」本多家上屋敷側に建てられました。南の「総門」の所が金城霊沢で、後に竹澤御殿が出来、この辺りに竹沢鎮守(現金澤神社)が出来ます。)

 

前回も書きましたが、学校造営2年前、寛政3年(1791124日に聖堂の地鎮祈祷を行い、寛政4年(1792)の「明倫堂経武館棟札写」には「金沢霊地・大成殿之基址既定」とあり、金城霊沢と大成殿(聖堂)の位置を決定し学校を建てたことが記されています。しかし、寛政4年(1791224日に聖堂の“手斧始”が行われますが、政隣記によると5月には聖堂造営は当分延期となり、その後、聖堂造営の記録はありません。翌寛政5年(1793)に田井天神が学校敷地内に鎮守(天満宮勧請)を命ぜられ、寛政6年(17943月に完成します。

 

 

 

政隣記:津田政隣は、通称権平・左近右衞門、初諱正隣。加賀藩の前田重教公、治脩公、斉広公の三世に仕へ、読書を好み文才に富み、天文7年(1538)以降安永7年(1778)に至る240年間の事蹟を記録した「政隣記十一卷」を著し、また、安永8年(1779)より文化11年(1814)に至る36年間、みずからが見聞する所をあつめて耳目甄録二十卷を著す。加賀藩政を編年体でまとめた重要史書。文化11年(1814)歿す。59歳。)

 

拙ブログ

一向一揆の堡(とりで)椿原天満宮

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10948785058.html

 

棟札には「金城霊沢御勧請天満宮(稲荷神・命婦神)鎮守御造営御棟札」とあり、「聖堂」ではなく「鎮守」が建てられます。それは現在の金澤神社とは異なる場所、金城霊沢とは離れた位置に描かれています。寛政4年(1791)に学校が開学したときは、聖堂も鎮守もありませんでした。寛政6年(1794)に鎮守が建てられ、初期の学校の施設が整ったといえます。

 

 

 

25年後、文政2年(1819)学校敷地に12代斉広公の隠居所である竹澤御殿が造られます。文政2年(1819)閏4月には「学校御立替」のため学校付の足軽・小者を減らされ、学校敷地内で、明倫堂を経武館は本多上屋敷側に移転させ、また、「鎮守」現在の金澤神社の場所に移転します。(参考資料【PDF】明倫堂・講武館等之図参照)

 

 

しかし、斉広公が、竹沢御殿に移住すると、隣の敷地に移転した学校の生徒が五月蝿くて堪られないと文政5年(18003月には明倫堂・経武館は仙石町筋御用地への移転が命ぜられ、7月には移転が完了しています。この地は寛政3年(1791)に学校用地の候補「金谷御門向上地」です。なお、鎮守は移転せず仙石町の学校敷地に新たに「学校鎮守」が造営され、移転しなかった鎮守は「竹澤鎮守」と呼ばれます。明治3年(1870)に明倫堂・経武館が閉校となり、加賀藩の藩校の歴史は終わり、学校鎮守の命婦神(稲荷神)の月読社は椿原天満宮に遷ります。

 

参考資料

PDF】明倫堂・講武館等之図

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=2ahUKEwilpfOv8YjjAhUZa94KHWjhAHUQFjAIegQIBRAC&url=https%3A%2F%2Fwww2.lib.kanazawa.ishikawa.jp%2Fkinsei%2Fgakkou2.pdf&usg=AOvVaw3uo8id8SXy7yZwtdw8nlsL

 

その間、竹澤鎮守天満宮は、慶応3年(1867)卯辰山開拓の折、卯辰山“鳶が峰”に遷宮し、卯辰山撫育所の守護神としました。遷宮は828日に地鎮祭を行い、市民の御冥加という勤労奉仕などもあり、一ヶ月にも満たない923日(11月説もあり)に祭神(官公の画像)を遷します。

 

(卯辰山天満宮の神殿には祭神天満天神、相殿大国主命、少彦名命の三座が国君(慶寧公)の命により鎮座し、遷座には7日間に渡り、町々は獅子舞や作り物、にわか、囃子などで賑わい、かってない盛大な金沢惣祭(盆正月)だったといいます。町にはのぼり旗がたなびき夜ともなれば軒々には見事な提灯が灯り人々は浮かれ賑わったそうです。大国主命(国土開発の神)と少彦名命(医薬の神)は、共に山造り、島造りなど国土開発や農業技術の指導普及、病気を治し薬である酒造りの技術も広めた国造り神といわれています。)

 

拙ブログ

天神さん④卯辰山天満宮

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11500858864.html

 

随分脱線してしまいましたが、竹澤鎮守天満宮は、明治5年(1872)に竹澤天神と称し、さらに明治7年(1874)に金澤神社と改め現在に至ります。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園を読み解く」著者長山直治 桂書房 200612月発行「加賀藩の学校“明倫堂と経武館”」玉川図書館近世史料館 平成29年度秋季展(平成29926日~1126日)


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