【金澤兼六園】
前回同様、成り行きで鎮守繋がりから藩校(文武之学校)をもう少し続けます。文武之学校の建物は、棟札写によると寛政3年(1791)10月に起工、12月柱建、寛政4年(1792)2月に完成し、11代治脩公は「学校之定」の触を出し、寛政4年(1792)閏2月6日、「文武之学校」開校を宣言します。藩主の学校見分、助教・師範の任命等様々な経過を経て3月2日に学校が開学しました。
(今、金城霊澤の前放生池に咲く睡蓮)
開学までの経緯については、京都の儒者新井白蛾を学頭に、藩士だけではなく、志ある町人百姓まで学校で学ぶ事を申し渡しています。前の年寛政3年(1791)5月には新井白蛾招聘の内諾を得て、6月には学校造営の意志を示し、その後8月には、新井白蛾が金沢に到着し、また、作事奉行矢部友右衛門(八郎右衛門)を学校造営普請方主附に命じています。そして、藩校の教師や師範となる人物を選定するために、家中の諸文武芸能師範の調査をしています。
(野田山墓地・新井白蛾の墓)
(新井白蛾は、父祐勝は加賀藩の出身で、その妾の子として正徳5年(1715)江戸に生まれた。三宅尚斎の門人である菅野兼山に師事して朱子学を学ぶ。22歳の時に江戸で教え始めるが当時は荻生徂徠の門流が風びしていたので京都に移り、易学を究め「古易の中興」を唱えた。寛政3年(1791)8月に11代の前田治脩公に招かれ、藩校となる文学校の創設に関わり、その学頭となり1年足らずの寛政4年(1792)5月14日死去。78歳。)
藩校(文武之学校)設立の目的は、藩士教育のみならず四民教導でした。四民とは士農工商のことで、藩校で学ぶ対象は武士に限らず、農工商をも対象としていましたが、農工商について史料では「町在之者」と記されていますが、これは町人と在所村人を指し、開学の宣言までに両学校に申し込みをした人数は、「上級藩士・下級藩士・陪臣・足軽」「町在之者」まで含めて「惣人数高2,600人余」と記されています 。
(今の兼六園にあった初期の藩校図)
これは上級藩士の子弟から「町在之者」までを身分階層等で分けていたようで、「町在之者」は、毎月1回、27日午前10時からの「小学」一講を受講することが出来たというもので、稽古始め当初、文学校では「四民為教導、町在之者迄」月一講座だけ出席できましたが、武学校では、師範人の弟子でも陪臣(以下町在之者まで)は武学校での稽古を止められていて、四民教導は名ばかりだったようです。
(12代斉広公は、文政2年(1819)2月に隠居を年寄に打ち明け、5月に隠居所(竹澤御殿)の建築を幕府に申請、それも表向きは、嫡子斉泰公(勝千代)の住居を建てる名目で願い出ています。そのため、学校は文政2年(1819)閏4月に学校は縮小され本多上屋敷側に立替えになります。文政5年(1822)に斉広公が隠居所に移ると学生が騒ぎ喧しいとし、「生徒たちが火を出したら大変だ」と言い出し、学校は文政5年(1822)3月仙石町に移します。)
その際、鎮守は移転せず仙石町の学校敷地に新たに「学校鎮守」が造営され、移転しなかった鎮守は「竹沢鎮守(現金澤神社)」と呼ばれます。
(仙石町の藩校・天保の金府大絵図より)
13代斉泰公は、天保8年(1837)2月に学政修補の検討を命じ、2年間かけて儒者等の様々な意見を集め、天保10年(1839)4月に学政修補を実施しています。修補の柱の一つは、学校(明倫堂)は本来、上級藩士の嫡子のためのものであるとして、彼らの学校への出席が少なく下級藩士ばかりが学校に出席している現状を改めようとしたもので、そのため、平士並以上の武士の嫡子、嫡孫で15~23歳までを生徒として、ほぼ強制的に学校に出席させる一方、与力以下の下級武士は学校への出席が制限されることになりました。与力以下の下級武士は「町在之者」と同様に月1回の儒学の受講のみになったのです。
寛政4年(1792)に武学校での稽古を止められていた陪臣は、寛政9年(1797)5月には“志次第罷出、可致稽古”と稽古を許されています。なお、このとき文学校における二七講の受講方法について陪臣以下町在之者については、何時でも“勝手次第聴聞”できるとしています。
これは、受講者が少なく席数などの管理が不要になったからかもしれませんが、学校開学以後の運営は、必ずしも順調とはいえず、運営などの問題点は、随時改正されていますが、藩主の交替時には大きな学政修補が行われています。
享和2年(1802)、11代治脩公は隠居し、12代斉広公が藩主となり、享和3年(1803)4月には学政修補が行われ、その対象は主に儒学の教え方。斉広公は3月には文学校における儒学の講義を止め、学問の本当に意味を忘れているとし、知識だけではなく、役に立つものを求めています。
そして、文学校の科目に「討論」を設け、また、新井白蛾の著した「古易断」の講釈を止めています。なお、「町在之者」は、毎月1回は変わりませんが、28日午後から儒学(孝経)の受講となり、当初「町在之者」だけで一講でしたが、「足軽・坊主・小者子弟及町在之者」で一講となっています。
武学校では、一師範1ヶ月2回の稽古から、一師範1回の稽古が2日から23日まであり、それ以降は、各師範人が不時順繰り稽古を行うとしています。そのため開学当時よりは師範人の人(組)数は増加しています。
その他、天保10年(1839)5月には学校の呼称について「文学校」・「武学校」ではなく、「明倫堂」・「経武館」と唱えるよう定めています。
(つづく)
参考文献:「兼六園を読み解く」著者長山直治 桂書房 2006年12月発行
「加賀藩の学校“明倫堂と経武館”」玉川図書館近世史料館 平成29年度秋季展(平成29年9月26日~11月26日)