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金城霊澤の伝説と史実そして今⑤金城霊澤と金澤神社その一

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【金澤兼六園】

金城霊沢と金澤神社の手水舎の水質は、小立野の河岸段丘及び旧扇状地堆積層からわき出た水で水脈は金澤神社と同じものであす。この水は、明治11年(1878)医学校教師オランダ人ホルトマン氏の分析によると、ほとんど混合物がなく、水にチオシアン酸カリュウムを加えると少しばかり血赤色を呈するほどの少量の鉄分が含まれているという。血の成分は鉄分で薬効があるということです。

 

(水のいわれ)

 

昭和58年(19836月から昭和61年(198612月にかけて採水し、PH6,70、水温14,0度で、6月と12月では大きな変動は見られなかったとあり、このわき水の成分パターンは、やや鉄とマンガンの成分が多く、カルシュウム、カリュウムなどのミネラル成分を適度に含み、鉄分が少し多いが、良質の甘水で、まろやかな味のするおいしい水です。

 

(水質は金城霊澤も金澤神社も同じ)

 

また、蛍光エックス線分析法により分析でも、カルシウム・鉄分を多く含み、日本百名水として知られる富山県上市町の「穴の谷の霊水」と似かよった成分パターンを示しおり、また、毎年飲用に適しているかどうかの「水質試験」を行っております。

 

 

(今の龍之図)

 

覆屋(おおいや)の天井絵、龍之図 

現在の龍之図は、加賀市出身の日本画家広田百豊(18761955)が昭和11年(1936)に描いたもの、もとの龍之図は江戸初期の狩野派の絵師狩野探幽筆と云われていましが、傷みがひどくなり、広田が描き直したものです。

 

 

(金澤神社の境内)

 

毎年6月(6月の第一土曜日を含む3日間)、金沢で開催される恒例の「百万石まつり」の初日、献茶式や23日目の百万石茶会に使われるお水取り神事「お水とり儀式」が行われ、2月に行われる、石川県文化財保存協会による大寒の糊作りや和菓子作りに使用され、戦没者慰霊式典にも供えられております。

 

(鳳凰山)

 

金城霊澤の鳳凰山

金城霊澤の傍らに、元小丸山の一部と伝えられて小山があります。竹澤御殿が竣工した時、この丘の上に多くの奇石を集めて鳳凰の形に造り上げたところからこの名が付いたと云われています。鳳凰は四霊獣の一つで、聖徳を備えた天子のしるしとして現れた想像上の瑞鳥で、鳳は雄、凰は雌で五色の“あや”があるという。天子や宮中あるいは英雄の意に用いられ、極めて高貴なめでたいものだと云われています。鳳凰山は洞窟になっていて、大きさは、間口約2,70m、高さと奥行はそれぞれ約2,15m。 中には金城霊澤碑があり、碑は幅1m、高さ1,60m、厚さ約0,3mで、他に添碑があります。

 

(金城霊澤碑と添碑)

 

金城霊澤碑

これは金城霊澤の伝承を碑文にしたもので、13代藩主斉泰公が設けたもので、斉泰公は天保10年(183911月に「金城霊澤」の扁額を斉泰公の書の師市河米庵に書かせていて、さらに、碑の作成を思いついたのだろうと、「兼六園を読み解く」の長山直治氏が推測していますが、碑文は、天保143月朔日、津田亮之助(号鳳卿)。銘は、渡辺兵太夫(諱は、栗)に作成を命じ、天保15年(弘化元年)正月付けで作成だれています。碑の題字「金城霊澤碑」は、斉泰公が自ら隷書で書き、撰文は津田鳳卿、銘は渡辺栗(りつ)書は市河三亥。碑文は伊豆産の「ねぶ川石」に刻まれ、江戸谷中の田中文学という名工が彫ったと云われています。

 

江戸からの発送は、弘化3年(18462月に800石積みの伊豆の船が、金沢から大坂へ登らせ、金沢に向かうので、その船の積ませていると「加賀藩史料」に収録されているそうで、その史料によると、総運賃は37両。また、同2月付けの、船積みの関わった佃屋文治という人物から会所宛の書状では、船積みで国元の大野浦まで送るので、着船次第、早速に陸揚げするよう願い出されています。大野に到着にしたのは、弘化346とあります。

 

(碑石は、長さ五尺六寸(約170cm)幅四尺六寸(約140cm)厚さ一尺五寸(約45cm)目方はおよそ四〇〇貫目。尚、碑石は「金沢古蹟志」にある彫工田中文学を金沢に招き彫らせてというのは、どうも違うようです。)

 

金城霊澤碑銘并叙  稼堂黒本植 訳

北陸ノ鎮ヲ白山トイフ。雪ソノ嶺ニ封リテ四時尽キズ、ソノ峻キコト霄ニセマル、称シテ本邦三嶽ノ一トナス、古ヨリワガ藩ノ管内ニ属ス、ソノ麓五州ニ跨ルリ、山脈蜿蜒トシテ北ニ向カッテ来リ、山崎荘ニ至リテ止マム・・・・・。

以下略                            兼六園全史より

 

(添碑)

 

金城霊澤碑の添碑

添碑の作成は13代斉泰公の指示で製作され、金澤神社の内金城霊澤の碑に付属した扇面で金城霊澤碑の傍らに置かれています。天保15年(1844)に市河米庵が手がけた書で、この添碑は明治10年(1878)に金城霊澤碑に付属し鳳凰山洞窟に附設されました。石は霊澤碑と同じ伊豆産の石だそうです。

 

(広坂よりの鳥居・ここから入ると無料です。)

 

「金城霊澤」「金澤神社」は、料金所の外側にあり、観光客の人も意外に訪れない場所ですが、一旦兼六園に入場してから、当日なら同じチケットで出入りはOKです。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」著者長山直治 桂書房 200612月発行

 


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