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金城霊澤の伝説と史実そして今⑥金城霊澤の金澤神社|その二

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【金澤兼六園】

昔、逸人アリ。称シテ藤五トイウ。アラカネヲ山ニ採トリ。コノ水ニ淘汰ス。故ニ金沢ショウス。藤五、人

ト為リ寡欲ニシテ、施ヲ好ミテオシマズ。ケダシ藤氏

ノ藤五郎、京洛ノ汾華ヲ避ケテ、来タリテココニ棲遅ス。褐ヲ衣テ玉ヲ懐キ、名ヲ遁レ、アトヲ晦ウシ、人

ノ知ルヲ求メズ。故ニ前史ノ徴スルニ足ル者ナシ。   中略

 

 

漢文訓読は黒本稼堂(兼六園全史より)

 

上記は金城霊澤碑の文中の2節目にあり、金沢に地名の由来伝説と芋掘り藤五郎の下りです。第13代斉泰公の命により、撰文は明倫堂の学者津田鳳卿が本文を、同じ学者の渡辺栗(りつ)が銘を刻み、書家の市河三亥が書き記したものです。

 

 

すんません。金沢の人やこの「金城霊澤の伝説と史実そして今」を初めから読まれている方には、わかっとるワイ!!耳に蛸や!?かもですネ!!でも、今回はじめて読む方もいるかも・・・。)

 

≪金澤神社≫

前回も書きましたが、11代藩主前田治脩公が藩校明倫堂を建てた時、鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真公を奉斎する社を創建します。竹澤御殿(兼六園)を整備する際に明倫堂は別の地に移転しますが、現在の祭神は学問の神様菅原道真の天神(天満自在天神)さん。相殿に災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である金比羅大明神、12代藩主斉広公、13代藩主斉泰公が奉祭されています。境内社として商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神と板屋神社遥拝所も合わせてお祀りしています。

 

 

(かって、金沢では正月にお子様に期待して「勉強ができますように」との願いをこめて天神堂や天神さんの掛け軸を飾る風習がありました。前田家は菅原氏の出を称しており、その領内には天神社・天満宮が他地域に比べて多く。前田家や分家の家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされています。ちなみに本家前田家の家紋は「剣梅鉢(加賀梅鉢)と呼ばれています。)

 

 

 

神社への参拝は、明治以前は425日と925日の例祭の時に城下の婦女子にのみ許されていましたが、明治7年(1874)の兼六園の一般開放にあわせて、自由に参拝が出来るようになり、明治9年(1876)に金澤神社に改称されました。 現在の祭典日は例祭925日、春祭425,26日、秋祭925,26日、祈年祭325日、新嘗祭1025日です。

 

学問の神である菅原道真を祀った神社の中でも金沢市の市街地に最も近く藩校の鎮守であったという経緯もあって毎年受験シーズンには、数多くの受験生が参拝に集まります。)

 

災難除けの神である白蛇竜神のご神体の一体は神社に一体は江戸屋敷にて奥方に代々奉斉されていたが、昭和21年(1946)神社に移されました。毎年101日に白蛇竜神のお姿をうつした神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の有力町民にあたえられたといい、現在も金沢市内の旧家に現存していると聞きます。

 

 商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神は明治維新の後、前田家が東京に移住する時その邸内に移されたが、旧藩士の懇願により再び神社に移されたと云われています。

 

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園を読み解く」著者長山直治 桂書房 200612月発行「兼六園全史」編輯者兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 昭和5112月発行


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