【金沢・中国東北地方】
米沢弘安45歳、この年の日記の書き出しに“非常時の日本の新年”とあり、満州国の問題や国際聯盟の成行などと綴られていて、弘安にとって世の中の動きは、新聞2紙で把握していることが窺え、“胆玉(きもっ玉)を据えて活躍せねば”と日本国民としての覚悟を表す言葉も書かれています。元朝には、例年通り氏神様やお寺参り、2日から6日までは、子供達とお買い初めや年始の挨拶廻りなどで過ごしています。日記の記事は少いながらも、何年来の正月風景が淡々と綴られています。
(昭和5年創業の三越金沢店より尾張町を望む)
昭和初期の時代背景
昭和2年(1927)に起こった「昭和金融恐慌」は、国が予算を減らした緊縮財政策による物価の下落や、関東大震災で発生した不良債権などから生じた金融不安が主な原因で、銀行への「預金の取付け騒ぎ」が起り日本中がパニックになります。アメリカでは「悲劇の火曜日」と呼ばれた昭和4年(1929)10月29日(火曜日)の証券パニックが他国へ波及し、世界的規模で広がり世界大恐慌に陥ります。日本では、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況になり、株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれます。昭和10年(1935)まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増します。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、昭和10年(1935)に公共土木事業が打ち切られ、生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えます。一方、この時期、関東軍が独断で満洲事変を起し、国際連盟からは満州国を中華民国に返還するように要請され昭和8年(1933)には日本は国際連盟を脱退し国際的に孤立します。そして、軍部主導の政治となり帝国主義が強化されます。特別高等警察が共産・反帝国主義などの言論弾圧。やがて、昭和16年(1941)、日中戦争から第2次世界大戦に突入します。
金解禁:金輸出禁止を解除し再び金の自由かつ無制限な輸出を認め、金本位制度に復帰することで、旧平価で金解禁を実施して国内経済に極度のデフレをもたらした。 昭和5年(1930)に日本の浜口内閣が行なった金解禁政策はその典型とされる。同年浜口雄幸が凶弾に倒れると、翌年末犬養内閣は金輸出を再禁止した。
国際連盟:第1次世界大戦を契機に、アメリカのウィルソン大統領の提唱し、世界平和維持と国際協力を目的として、大正(1920)1月に発足した国際機構で、日本は発足当時からの常任理事国(発足当時は4カ国)であり、事務局次長は日本人の新渡戸稲造が任命され7年間務め、日本は中心的な役割を担っています。原加盟国数:42カ国、昭和9年(1934)には、加盟国数が60カ国、本部はジュネーブ(スイス)にありました。日本が主張する満州国建国が国際社会から認めなかった事から昭和8年(1933)3月に脱退を通告した。(常任理事国イギリス・フランス・イタリア・日本、後にドイツ・ソビエト、アメリカの不参加は、モンロー思想と当時のアメリカ世論が国際連盟への参加を拒む。)
(今の安江八幡宮)
昭和8年正月の日記(正月7日まで、天候の記載がありません。)
1日 日 ・非常時の日本の新年、世界環視の中にある日本は、大いに胆玉(きもったま)を据えて活ヤクせねばならぬ年だ 満州国の問題、国際聯盟の成行等澤山の問題がある ・元朝、喜代子弘正の二人を連れて、安江神社、両別院へ参詣せり 帰宅後、屠蘇、雑煮を祝ひて子供三人ハ学校の式に行く
(非常時 国家的、国際的に重大な危機に直面した時「国家の非常時」と言います。日本では昭和初期に入り「非常時」という言葉が盛んに用いられます。子供三人 長女喜代子、長男弘正、次女登代子(大正14年生まれ)。安江神社 現安江八幡宮・明治になると安江神社になり戦後安江八幡宮が復活。 両別院 東別院(真宗大谷派)西別院(真宗本願寺派))
(今の東別院)
(今の西別院)
二日 日 ・インフレ景気の初賣を見るべく喜代子、弘正、登代子、信子の四人の子供を連れて、一日の午后十時頃より出掛けた 三越、青駒を廻り尾張町、橋場町迄行き引返す ・デパートは何と云っても人気は一等だ 一時頃ニ帰り、お燈明を上けて拝し、寝ニ就く ・午前九時頃ニ漸く目が覚めた ・土方通治様年賀ニ御出あり、年酒を出す
(インフレ景気 昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥るが、昭和6年(1931)蔵相に就任した高橋是清は、リフレ(インフレ)政策を断行する。三越金沢店 百貨店、今の「かなざわはこまち」のところに昭和5年(1930)地元の政治家林屋亀次郎が期限付きで誘致、以後、名称の変遷をへて移転し名鉄丸越となり、現在、めいてつ・エムザ。青駒商店 缶詰(乾物、鰹節、和洋酒)青梅駒次郎(青草町)。 信子 三女(昭和4年生まれ) 年酒 新年を祝う酒。また、年賀の客にすすめる酒。)
(昔三越のあった跡に出来た今のはこまち)
三日 月 ・年賀郵便ハ一日より本日迄ニ六十枚程来た 年賀客も三ヵ日迄ニ大抵出られるか、年々少なくなり、市内でも葉書を出す人が多くなった ・本日ハ清二及荒木純一君ニ年酒を出す ○山海関事件、一月一日午后九時、支那側ヨリ爆弾ヲ投ズ 我軍應戦、山海関ヲ占領ス
(年賀状 年賀の挨拶廻りが、年々少なくなり、年賀葉書を出す人が多くなる。 山海関事件 事件は昭和7年(1932)12月8日夜10時、日本軍の装甲列車で中国軍が警備する山海関駅に侵入しようとしたことから始まっている。第二次、第三次山海関事件があり、詳しくは15戦史参照。)
(米沢金属美術品製作所の広告)
四日 火 ・旧蝋、輪島の橋本様より頼まれた天保銭茶托ハとうとう年内ハ仕上がらず年を越して志まったが、本日漸く送った ・午后年賀ニ出る 近所は弘正ニ廻らしたので遠い處へ行く中に、浅の川口を廻る 清二方で年酒を頂いて出ると雨がはげしく、時間も四時近く、まだまだ廻る積もりだったが帰宅する ・土方のお父様が来られ、年酒を馳走ニスキ焼をする
(旧蝋 去年の12月。新年になってから用いる語。天保銭茶托 銅製の天保銭の形?の茶托か。 スキ焼 牛肉とねぎを使ったご馳走、この頃には材料がそろっていた様です。)
五日 木 ・小供連全部お里へ行き、芳野も伊藤様へ行き、二階の中瀬様夫婦も外出せられたので留守がない 午后二時より年賀ニ出る 犀川方面を廻る 慶覺寺、成学寺へも行く 桜谷方へ日暮ニ行き同君と餘香會新年會の相談をする
(慶覺寺 真宗大谷派・百姓町(現幸町)米沢家は門徒 成学寺 浄土宗・蛤坂町(現野町)
(現幸町の慶覚寺)
(現野町の成学寺)
六日 金 ・消防出初式ハ本日午前出羽町練兵場ニ於て擧行さる ・金沢市信用組合へ節約保険の満期を取りニ行く 次手ニ長田代書人へ行き、吉駒の戸籍の事ニ就相談する ・夜十二時過ぎ、三社五十人町津田製作所ニ火事あり 工場三棟を焼く 水野方、横地方、工業試験場をお見舞いする
(出羽町練兵場 現在の本多の森ホール辺り 津田制作所 昭和51年に倒産した北陸機械工業の前身)
(つづく)
参考文献:参考文献:「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」編集米沢弘安日記編纂委員会 金沢市教育委員会・平成15年3月発行・関東大震災 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
金沢市史年表 金沢100年大正昭和編 金沢市図書館
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm