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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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昭和8年(1933)7月9月、非常時の中の市民生活②米沢弘安日記

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【金沢・世界】

米沢弘安日記に沿って、大正、昭和の事件を追ってみました。最初から意図していた分けではなく、深く考えずに勝手にドイツに戦線布告した大正3年に設定し、日記と時代背景を調べていく内に、約10年毎に私でも知っている事件が浮かび上がってきました。大正12年(1923)には関東大震災が、そして昭和8年(1933には国際連盟から脱退と、日本にとって重要なワードクローズアップされてきます。この後、8年足らずで世界第2次世界大戦に突入します。

(個人的には今回、日記の全部読めずに期限が来たので、返却しましたので、ここで終わりますが、いずれ再読しようと思います。)

 

(金沢駅)

 

時代背景

昭和6年(1931)の満州事変と昭和7(1932)上海事変後、その年の五・一五事件によって政党政治が終わりを告げ、満州国建国、昭和8年(1933)の国際連盟脱退という国際的な孤立の道を歩み、そして昭和11年(1936)の二・二六事件を経て軍部独裁体制が作られ、昭和12年(1937)に中国との全面戦争である日中戦争へと突入します。その歩みはヨーロッパのナチス(ドイツ)の政権獲得からスペイン戦争の人民戦線の敗北へと言うファシズムの動向と一致しています。

金沢第九師団

満州事変で出兵しなかった金沢第九師団は、第1次上海事変(1932で、石川県人が主力の金沢第九師団が参加しました。石川県民にとって十五年戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称)の始まりで、それまで石川県は他県と比較して盛り上がらなかったので金沢第九師団側としては不満足で軍国思想の普及のため、満州通と言われた林第七連隊長による50数回の講演会や飛行機からのビラまき、ラジオ放送でも訴え、市街地での模擬戦闘や各地での国防展の開催など最大限の努力と工夫をします。金沢第九師団の出兵と同時に、県民の軍への協力度や体制が一変します。しかし、上海では強力な中国軍の反撃によって予想をはるかに上回る大苦戦(実質的には敗戦)となり、日本で最も多い戦死者を出すことになります。

昭和8(1933)の米沢弘安日記

日記は、大正15年以降、弘安の作家とそれを取巻く身辺の多忙からか、記述が簡略化していましたが、昭和に入ると益々目立つようになり、月の欠落が目立ち、昭和5年、6にはノートではなく、メモ風の用紙の裏を使い、判読不明や欠落も多く、昭和7年分は完全に欠けていて、8年には再びノートにもどっても6月まではそこそこ書かれいるものの7月は6日間、8月はなく、9月は3日間しかなく、その後再開されたのは昭和29年からだと、“別巻”の後記に書かれています。この頃には若い頃に書かれていた新聞情報の政治や戦

争に関する記事が皆無になります。

 

(片町大和デパ-ト)

 

昭和87月・9月の日記

七月

十四日   金 ・殿町増林油店出火、二戸焼失(正午) 遠藤様へ御見舞す

殿町 金沢の旧町名、現大手町、尾張町1丁目か)

二十五日 火  本日朝より暑く、華氏95度あり 本年最高の温度あり 午后二至り熱風砂塵を飛ばし、人々湯に中の鮒の如くにあへぐ中、夕頃より豪雨となり終夜降る ・誠伸會ハ玉川町小松方二催され、出席す

華氏95度 摂氏35℃)

二十六日 水 雨 ・午前二時頃より降り出した豪雨の為遂二大出水し、川岸の両側浸水す 床上二達し近年なき大水なり 犀、浅両川も出水し、市内各所二氾濫せりか、縣下中最も被害大きい大聖寺川にて、路上5尺二及び、千七百戸浸水 次ハ小松町にて六千六百餘にて惨状を窮む

川岸 長町川岸(鞍月用水)

 

(金石行の電車)

 

二十九日 土  ・喜代子ハ今日より金石へ海水浴二行く

金石 昭和20年代まで海水浴場がありました)

三十日   日 晴・弘正本日ヨリ金石へ海水浴二行く

三十一日 月 晴・本日学校より通知簿を貰ってくる 喜代子は成績前と同しくよく、十点七つもあり、弘正ハ少しよくなり十点一つあり、登代子ハ下り困っていた ・午后廻る 木村様、宮崎様、吉田様、勧業銀行、野崎様、吉駒等

九月

十三日 水 ・仙臺市國立工藝指導所、国井喜三郎氏来澤、公園商陳にて欧州視察工藝談の講話あり 謹聴す ・玉井敬泉氏の帝展作品見る 白山の御来迎にて、タスキ掛にて雲を塗って居られた ・鉄道局設置運動の為、請願書を作り調印を取る事となる。商工會議所へ行く 三番丁の分を引受ける

仙臺市國立工藝指導所 昭和3年(1928) 商工省は日本固有の工芸の改善発達を図るため、国立工芸指導所を 仙台市に設立。公園商陳 兼六園の現梅林のところにあった石川県商品陳列所、前身は石川県勧業博物館)鉄道局設置運動 北陸鉄道局誘致は、金沢のほか新潟、富山、長野、長岡、新津、福井で、金沢市民約4万人の署名あり)

十四日 木 金城画檀を見る 日本画五十一点、洋画百二十一点、大作あり ・宮本、辰巳、僕の三人にて請願書二調書を取り廻る

 

(安江神社)

 

15日 金 安江神社の本祭りなり 雨降る 午后晴れ、子供を連れて参詣す

金城画檀 大正13年(19241月に発足。前年の関東大震災によって東京は壊滅状態となり、石川県出身の画家の多くは帰郷。当時石川県の画檀が、ぬるま湯につかっているように見えたことから発足したといわれています。)

 

(晩年の米沢弘安氏)

 

米沢家と米沢弘安

父職名弘正(清左衛門)は米澤家6 代目象嵌職人として加賀藩御細工所に登用された細工人で、廃藩後は金沢市の職人養成所の棟梁を務めていました。弘安は、11歳で父に象嵌技術を習い、15歳で高等小学校を主席で卒業します。家業を継ぐため進学できなった弘安は、日露戦争が始まる明治37年(190417歳で中学の通信教育を受講し翌年1学年を終了、日記を書き始めたのは19歳の時からでした。兄(画号光雲)は絵描きを志、今風に云うと宝石のデザイナーになり名古屋に去り、次男である弘安が家業を継ぎます。弘安は、問屋や一般顧客からの注文で生計を立て、そのかたわら資金を投じて展覧会出品の作品を製作します。大正から昭和初期にかけ伝統工芸界全体が隆盛し、象嵌細工も生活用具の装飾や奢修品の注文が増えています。

 

読後

平成23年(2011311日に発生した東日本大震災と大正12年(1923)には関東大震災が重なります。もしかすると?近い何時か、日本では、国際的な事件やカジノなど金に絡む事件が起りテロに巻き込まれ、人心は廃れ、確実に日本は衰退しるかも?そんな風に思うのは私だけでしょうか?

偉人の言葉を借りれば

”いわずとも知れたことを云うは老人のくせ”

歴史が繰り返さ無ければと願うばかりです。 

愚かな一閑人

 

(おわり)

 

参考文献:参考文献:「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」編集米沢弘安日記編纂委員会 金沢市教育委員会・平成153月発行・関東大震災 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

金沢市史年表 金沢100年大正昭和編 金沢市図書館

https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm


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