【加賀藩 金沢 江戸 京】
長左衛門安信は、2代目舟木伝内包早の次男で、御料理人に召し出されたのは、父包早が54歳の元文4年(1739)12月でした。七人扶持で当時の御料理人の子弟が召し出されるときにだされる定禄です。因みに御料理人の子弟以外は五人扶持でした。
桜田御前様:綱紀公のご息女節子、浅野藩の5代松平安芸守吉長の正室
(長左衛門安信の母は、桜田御前様付賄人小川故伝兵衛娘だと云われています。安信が御料理頭になる1年前の明和2年(1765)12月亡くなっていて、伝内包早との間に何人子が居たかは不明ですが、「先祖由緒并一類附帳」によれば嫡子津左衛門が病死し、次男の長左衛門安信が後を継いで3代目になりました。なお、長左衛門安信の妻は、加賀藩の御算用者小川清太夫の妹だったと伝えられています。)
延享4年(1747)に政所様御料理人に仰せ付けられ、禄が切米三十俵となり、寛延元年(1748)3月、政所様逝去に付き、翌年7月御台所奉行支配となり、宝暦4年(1754)3月、10代藩主前田重教公(しげみちこう)の御膳方定役を仰せ付けられ、翌月には「家芸(料理)」の心掛けがよろしく、御用もつとめられたことが認められ、切米五俵が加増され、三十五俵となります。
政所様:綱紀公の六女利子(関白二条吉忠の政所
(当時、禄高三十五俵は「御料理人」の定禄で、禄高としては一人前の「御料理人」となります。安信が料理人として召し出されから15年目の春の事でした。)
宝暦7年(1757)8月、長左衛門安信は、御膳所に代わって御台所御用を仰せ付けられ、同9年(1759)7月に父が病死したため、12月に父の遺知80石を拝領します。当然のことですが、無能であれば、すでに切米三十五俵を支払っているので80石を相続出来なかった。
長左衛門安信が御料理頭になったのは、二説あって、加賀藩の「先祖由緒并一類附帳」によると、安永元年(1772)10月に御料理頭になったと記されていますが、加賀藩の「諸頭系譜」では、明和3年(1766)12月24日で、いずれも父包早の死後になり、父の悲願、息子の御料理頭を目にする事はなかった事になります。
(いずれが正しいか!?推測ですが、加賀藩の「先祖由緒并一類附帳」は明治になってまとめられたもので、自著「料理秘伝書」にも「・・・・・・明和5年(1768)正月、自分(長左衛門安信)御料理頭ニ而初而相勤候ニ付、御目録ニ而御小袖拝領。」とあり、すでにこの年には御料理頭になっていた事になり、「先祖由緒并一類附帳」による“安永元年(1772)10月”は間違いである事が分かります。)
長左衛門安信も父伝内包早と同じく料理書を著しています。以後、舟木家の人の編んだ料理書が無いと云われています。それは、現存していないのか?発見されていないのか?今のところは分からりませんが、いずれにしても、2人が残した料理書の完成度が高く、これらを学習すれば、加賀藩の料理人の知識として充分で、2人の料理書は、相当のレベルに達したと言われていて、後の子孫は書く必要が無かったのではと云われています。
2人が著わした料理書を列挙すると
有職故実(ゆうしょくこじつ)・礼儀作法に関する書
包早「料理方故実伝略」
安信「五節句集解」安信「式正膳部集解」
献立・取り合わせに関する書
包早「ちから草」
調理方法に関する書
安信「料理の栞」
食品加工に関する書
安信「包厨調飪規矩」
食べ合わせに関する書
包草「調飪禁忌弁略」
食材に関する書
包草・安信「料理無言抄」
書物の内容について父伝内包草は発句を趣味としただけに文才が窺えます。饒舌で、今風にいえば感性があり「おもてなしの心」が感じられ、食する人への配慮も書かれています。一方、長左衛門安信の料理書は「遊び心」がなく「生真面目」で、料理書の書名を見ればその内容が分かるもので、内容も分かりやすく説かれていて、実用書として優れていると云われています。
父伝内包草には料理書の他、料理人はあまり書いていない教訓等が記された「舟本伝内随筆」があります。初老を過ぎた41歳の父伝内包草が子のために著わした書物で序には以下のように記されています。「昔の人の物語または草双紙など、見たり聞いたりしたなかで、真実だと思い、おかしいと思うことを取り集め、引き集め、それに見ふれ聞き触れした内にて、さらに愚痴文盲なる自分の功罪等を書き加え、そこはかくとなく書き付けて子供にとらせるものである。これが今年の江戸土産である。」と記されています。
(詳しくは、「包丁侍舟木伝内」P117第四章親としての包早を参照)
父の真意:伝内包早は、忠節忠孝を尽くせといって言っています。忠節であれば孝行であるはず、孝行であれば忠節であるはず。忠節忠孝でないゆえに愚かである「主君によく奉公する事を忠節と云う」と定義し、愚かでなくなる事が「身を立てる」ことにつながるというのです。また、料理役は、心が賎(い)しくては、やっていけない役職である。心が賎しいとき、人は総てが賎しくなる。心が賎しいと、貴人の心がどのようかという配慮がないため、微妙なところで「心の味」が悪いということのようです。欠かせぬ味は「人間味」であるといっています。
(つづく)
参考文献:「包丁侍舟木伝内」陶智子・綿抜豊昭著 株式会社平凡社 2013年10月9日発行 「金沢古蹟志」第5編 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 「大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」 中屋隆秀著 東山妙泰寺(石川郷土史学会々誌第51号抜刷)平成30年12月発行