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加賀藩御料理人伝説②舟木伝内包早(その三)

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【加賀藩 金沢・江戸】

舟木伝内包早は、宝永5年(1708)から仕えていた綱紀公の子利章が、宝永8年(17119月に大聖寺藩4代目を襲封し同行しますが、翌月5代藩主前田綱紀公「御膳方」を仰せ付かり、綱紀公がお亡くなりになる享保9年(172459日までつとめられています。当時、綱紀公は67歳でした。

 

(加賀藩江戸屋敷の赤門)

 

(正徳5年(17151229日の「料理秘伝書」の年末手当として、御料理頭長谷川宇左衛門他御料理人5名に衣料が贈られている中の御料理人に30歳頃の舟木伝内の名前があり、また、同書に享保4年(1719)から3年間、元旦の年頭規式「鯉の包丁」舟木伝内「まな板」を運ぶ役をつとめたことが記されているとか・・・。)

 

(加賀藩江戸の下屋敷)

 

当時、綱紀公は今言う“グルメ“だったらしく、江戸の下屋敷に、津軽で端午の日に「ちまき」土芋(ほど)を添え佳慶としたと聴いてか、土芋(ほど)を植え御膳御用に供したという、伝内包草の「料理無言抄」に”今加州端午之日黍藷薯(きびやまいも)ヲ添モ故アルカ“と書かれています。また、”松雲院(綱紀公)様御代、正徳四年(1714)八月、信州善行寺近辺飛脚以葡萄コト有。信州名物ナリ。“とあり。綱紀公はわざわざ飛脚を使い葡萄を取り寄せています。少し下世話のイイ方になりますが、綱紀公は「食べ物にうるさかった」のかもしれませんネ。(注:土芋(ほど)とは、蔓藷薯(つるやまいも)か?)

 

(息子舟木長左衛門安信の著と云われている「料理の栞」に、綱紀公が好んだ思われる3つの料理が載っているそうです。1、あたゝめなます。(松雲院様、度々被召上候)2、湯豆腐。(松雲院様、此法御意に入、仰出度々也)3、ふと煮。(松雲院様、被召上候。一段宜由被仰出)詳わしくは、陶智子、綿抜豊昭著「加賀百万石のお抱え料理人包丁侍舟木伝内P6566をご参照ください。)

 

 

(能舞台)

 

綱紀公の言に、料理は一座の能のごとし。先献立は番組なり。魚、鳥、殻、菜は役者なり、撰らばずは有るべからず。按排は能の出来、不出来也、尤心を付くべし。とあり。さらにいえば、能を含めた芸能は、優れた観客(見巧者)があってこそ、よりよいものになっていく。料理も同様、綱紀公が料理に関心があったとしたら、その御膳方で積まれた10年以上の経験は、伝内包早にとって有意義であったものと思われます。

 

 

(5代綱紀公)

 

また、綱紀公という料理に関心のある藩主の存在があったからこそ、料理の技術を磨き、その知識を豊かにすることに生甲斐を感じ、つとめたと云っても過言ではありますまいか、綱紀公の後、6代藩主になった吉徳公の御膳方になり、加賀藩の御料理人の中で上から4番目ないし5番目になり、料理そのものだけではなく、素材や料理の方法に精通し、豊富なメニューで美味しいものや健康食が提供できるというほかに、身分社会における形式をよく理解し、行事という儀礼に関する知識も豊かで有ったものと思われます。

 

(金沢城石川門)

 

6代藩主吉徳公は、延享2年(1745612日の急逝し、同年725日の吉徳公の子宗辰(むねとき)公が7代藩主に、延享3年(1746128日の22歳で没し、8代藩主重

煕(しげひろ)は宝暦3年(175348日に25歳で没し、9代重靖(しげのぶ)は宝暦3929日に19歳で亡くなります。伝内包早は宗辰のときには御台所御用をつとめていますが、その後の藩主については不明です。そして、伝内包早は宝暦9年(17597月、75歳で病死したと伝えられ、子息長左衛門安信は伝内包早念願御料理頭になり活動しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「包丁侍舟木伝内」陶智子・綿抜豊昭著 株式会社平凡社 2013109日発行 「金沢古蹟志」第5編 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」 中屋隆秀著 東山妙泰寺(石川郷土史学会々誌第51号抜刷)平成3012月発行


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