【加賀藩・金沢・江戸】
平成25年(2013)12月に公開された映画「武士の献立」は、平成22年(2010)に公開された映画「武士の家計簿」の成功で、もう一匹の「どじょう」を狙って地元提案で生まれた作品のようですが、それなりに成功をおさめたそうです。この作品は加賀藩のお殿様の料理人舟木伝内包早、次男長左衛門安信と実在の人物がモデルです。物語は、史実か?よく分からない「息子の嫁」。そして、当時、御料理人と関わりが無かったと思われる「加賀騒動」を絡め、主人公が巻き込まれる設定で、かなり盛られたヒューマンドラマに仕上げられたフィクションでしたが、それなりに面白くて為になる娯楽映画でした。それまでは、地元でも多くの人は“舟木“の名前すら知らず、私も観光ボランティアガイドになりたての頃、研修か何かで聞いた事もありましたが、当時は関心もなく聞き流していました。
(金沢城橋爪門)
(料理人は元々裏方で、料理のビジアルやレシピは残っても、料理人の名前まで残っていることは殆どありません。しかし、舟木伝内包早は教養も高く、後輩に?いや息子に読ませるために多くの書物を残した人で、自分は藩の料理人のトップにはなれなかったので、息子をトップの座に登り詰めさせようとするところが興味を引きます。また、料理人は下級武士で、全国的にも史料が余り残っていなく、舟木家は、加賀藩お抱えの料理人ですが、残された書物は貴重な史料になっています。)
御料理人は、武士としては低い身分ですが、藩主前田家の人々へ体に良いものを選び健康を守るとともに、“饗応料理“をつくり藩の威信を示し、また、食材では節約につながる工夫にも心がけたと云われています。
(現在も残る奥村宗家の長土塀)
舟木伝内包早(ふなきでんないかねはや)
舟木包早は、「先祖由緒」によれば、父甚助と同じ加賀八家奥村宗家に仕えています。宝永4年(1707)7月、22歳のとき、御料理人として藩に召しだされ、身分は御歩並、切り米35俵。薄給ですがそこは食材を扱う料理人、日頃、食するものには不自由しないところが役得だったのでしょう。翌年、5代藩主前田綱紀公の子利章(後の大聖寺4代藩主)御膳方を務め、利章について大聖寺へ、1年を経た宝永8年(1711)10月に綱紀公の「御膳方」になり、享保9年(1724)5月9日、綱紀公が没するまで御膳方をつとめ、以後、6・7代目の藩主に仕えています。
[舟木家歴代]
奥村家給人舟木甚助(初代)→御膳方棟取舟木伝内包早(2代目)→御料理頭舟木長左衛門安信(3代目)→御料理方棟取舟木知右衛門安通(4代目)→御料理頭並舟木伝内光顕(5代目)→金谷御広御膳所定役舟木伝内忠之(6代目)
(金沢城二ノ丸御殿の平面図)
藩主の料理人であれば、正当な包丁道をおさめていなくてはならないと舟木伝内包早は藩命を受けて、江戸幕府の台所頭、小川甚四郎に師事し四条園部流の「包丁」の伝授を受けています。
(二ノ丸御殿の御台所の平面図)
(現在の金沢二ノ丸・人がいっぱいいる辺りに御台所が・・・)
記録によれば享保7年(1722)3月25日に「鳥之切揃」と「鯉之切揃」享保12年(1727)3月1日に「魚之切揃」を相伝されていることが分かります。包丁の作法も魚鳥の切り分け方が重んじられるのは、ある種の宗教行為からで、“出陣の鯉の包丁”では身を切り散らす。これも敵を切り散らす呪いか?また、この包丁は俎(まないた)の左角に置かれているのは、箸(はし)を挟む板紙を返さない、それは裏切らないという呪いだといわれています。
(金沢城の平面図・二ノ丸御殿)
これらの将軍家に伝わる知識を得るだけでなく、幕府の礼法を担当した小笠原家からも学び、年頭のおめでたい行事として「鶴包丁」「鯉包丁」という、鶴や鯉を儀式に則って切り分け披露する技も身に付けていたと云われています。舟木伝内包早の次男長左衛門安信はじめ子孫は加賀藩の御料理頭や御料理頭並も務め、代々藩の御料理(膳部)の師範役でした。
(包草は、享保4年(1719)の35歳頃から、「ちから草」を書き、また、三代目安信とともに享保14年(1729)に「料理無言抄」を編み、他にも優れたレシピ集を著しています。)
元禄10年(1697)御料理頭が置かれてからは、その下に属する料理人は50人位いたと言われていますが、包早は58歳の寛保3年(1743)正月、2人目の「御膳方棟取(御料理方棟取)」に任命され80石を拝領します。それまで切り米45俵が支給されたのに対し、領地が与えられ知行取りになり加賀藩士として「格」が上がったことになります。そして包早は宝暦9年(1759)7月、75歳で病死。すでに次男安信は御料理人として務めていました。
(知行80石(加賀藩は玄米1俵が5斗、2俵で1石、160俵)仮に五公五民でも半分の80俵ですから、格も上がり実質では35俵も多くなりました。)
四条流庖丁道
平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派で、庖丁道(庖丁式)とは料理に関する作法・故実や調理法などを最もよく使われる包丁を象徴した呼び名です。
(四条流の起源は、四条中納言藤原山蔭(天長元年(824)~ 仁和4年(888))が第58代光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられています。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたらしく、その頃、唐から伝えられた食習慣や調理法が日本風に消化されて定着しつつあり、それらをまとめて故実という形で藤原山蔭が結実させたもので、これにより、藤原山蔭は「日本料理中興の祖」とされています。)
鎌倉時代中期に中御門流持明院基家の三男で園家を興した園基氏が、四条流を学んで別派を興し「四条園流」と称され、室町時代には足利将軍家に仕えた四条流の庖丁人(料理人)・大草公次(三郎左衛門)が「大草流」を、また室町時代末期には細川晴元に仕えた進士次郎左衛門尉が進士流を創始したと言われ、公家社会のみならず武家社会における料理においても、四条流の分派が浸透しはじめています。また四条流を学んだ園部和泉守という庖丁人が三河松平氏に仕えていたが、徳川家康が天下人となり江戸幕府を創始すると、「四条園部流」が幕府の台所を預かることとなり、江戸時代には各藩へも普及が進んだといわれています。
(金沢城石川門)
(脱線:金沢の名産「すだれ麩」は舟木伝内包早(ふなきでんないかねはや)が作り出したもので享保10年(1725)に完成し、享保14 年の自著「料理無言抄」には「すだれ麩」の名を載っています。)
(つづく)
参考文献:「包丁侍舟木伝内」陶智子・綿抜豊昭著 株式会社平凡社 2013年10月9日発行 「金沢古蹟志」第5編 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 「大友義左衛門(粂満)第百五十回忌を迎えて」 中屋隆秀著 東山妙泰寺(石川郷土史学会々誌第51号抜刷)平成30年12月発行