【幸町(旧山田屋小路・旧主馬町・旧早道町)】
旧山田屋小路
旧山田屋小路は明治5年(1872)から昭和39年(1964)4月1日の町名変更まで、今の石川県庁幸町庁舎辺りに1番丁から3番丁までがありました。昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」にも書きましたが、藩政時代、山田屋という魚屋が数代に渡り、住んでいたことから、この名がついたと云われています。
(旧山田屋小路にある石川県幸町庁舎)
拙ブログ
昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12446164694.html
(旧主馬町の石標)
旧下主馬町
旧下主馬町は、昭和39年(1964)4月1日の町名変更では幸町と菊川2丁目に分立しますが、藩政期、初見は元禄2年(1689)5月の改作所旧記で、主馬殿町と書かれています。昔、1800石拝領(利長公の頃には3000石)の藩士本庄主馬の屋敷があり、元和6年(1620)の侍帳に鉄砲頭とあり、大阪夏の陣では銃将として出陣します。その頃、本庄主馬と河原兵庫が頭を勤め、持筒足軽は2組、1組100人。1人35俵、小頭は50俵を賜わり、足軽であるが御歩者よりも上列でしたが、利常公の時代になると戦いもなくなり、平生のお勤めは、年間2、3度宛の稽古で人形を打か、軍事以外の町の業務、火事の時は石川門と河北門の警護のあたるだけになり、そのため持筒足軽の2組は廃止になり、全ての持筒足軽が先手足軽に命じられ、減給(1人29俵)になり、足軽の中で不満が高まり暇を取る者もいて、頭の本庄主馬は3000石を拝領していたが、辞職して京に去ったといいます。
(嫁坂)
国事昌披問答に、主馬の嫁は篠原出羽守の娘で主馬に来婚の時、今の出羽町にあった出羽守の屋敷から坂の下(旧主馬町)にあった主馬の邸宅の間の坂路を開き、今も「嫁坂」と云われ残っています。また、主馬は鉄砲頭であり、その組子の鉄砲足軽の組地を賜り、鉄砲足軽が居住し以後軽卒の宅地となります。明治4年(1871)上・中(広丁)・下主馬町等に分立した。旧上主馬町(菊川1丁目)旧下主馬町(幸町・菊川2丁目)旧主馬町広丁(菊川2丁目)
(旧早道町入口)
旧早道町
この町は、現在幸町と菊川2丁目に分かれていて、枝町の上にあり、旧新竪町1、2丁目の裏町でした。藩政期は足軽の組地で、延宝の金澤図を見るに、この地辺はすべて足軽の組地で、山本久左衛門預り足軽、長瀬新九郎預り足軽、その外明組定番足軽等の組地だったと金澤古蹟志に記載されています。また、この地に昔は早道とて飛脚用を勤める足軽の邸地に初めて賜はり、通称早道町と呼んでいます。その頃、戸数はわずかで、延宝の金澤図にあるように追々諸組附の組地となり幕末まで続きます。この地辺は昔、法嶋村の河原でした。
(旧早道町の昔なごりの生垣・足軽住居は土塀ではなく7尺の生垣でした)
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足軽の仕事③
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224366501.html
(藤岡東園)
≪藤岡 東園(作太郎)≫
明治3年(1870)7月19日(旧歴8月15日)~ 明治43年(1910)2月3日)は、金沢市早道町で切米20俵の足軽だった父通学の長男として生まれ、6歳の頃より、町内にあった小関成安の塾に入り、記憶力抜群で秀才ぶりを発揮します。当時より「喘息(ぜんそく)」の病気持ちで、発作に苦しむ時が多く、その「喘息」が生涯続きます。そのため作太郎は他の少年より体が小さく周りからは「マメ」と云われていたらしい、明治11年(1878)8歳の時、創立しがばかりの金沢区立竪町小学校(平成30年(2019)3月閉校する新竪町小学校)に入学、明治16年(1883)には県下の秀才が集る石川専門学校(四高の前身)の付属初等中学校に入学します。
(旧早道町の藤岡作太郎の生誕地碑・新竪町小児童一同・昭和31年)
のちに四高時代、作太郎は同窓の西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)の3人で「我尊会」という文学の同好会をつくり、回覧誌の編集に取り組んだとき、幾多郎の「有翼」、作太郎は子供の頃の「マメ」のあだ名から豆の同義語である荳園(とうえん)とし、後に「東園」と号したという逸話があります。後に作太郎と西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)を「加賀の三太郎」と称されます。作太郎は東京帝国大学国文科卒業後、京都の2つの中学校の教員を経て2年後、第三高等学校教授に迎えられ、明治33年(1900)東京帝国大学助教授となります。明治38年(1905)「国文学全史」の“平安朝篇”が完成し文学博士称号を得て、東京帝国大学では日本文学史を全体にわたって講義します。明治42年(1909)には、82歳の生涯で優れた業績を残し5代藩主前田綱紀公の伝記「松雲小伝」を著します。心臓麻痺のため明治43年(1910)2月3日に39歳で死去。没後その遺稿が刊行され、「国文学全史平安朝篇」は今も読み継がれる古典です。
(昭和29年代の旧山田屋小路・旧主馬町・旧早道町の図)
P,S
新竪町小学校は、明治3年(1840)11月21日開校した河原町小学所に始まり校名変更や合併、分離などの変遷を経て、大正3年(1914)9月近隣の金沢市立菊川尋常小学校に418名の児童が転校して分離開校してから105年。新竪町小学校と菊川町小学校として歩んできた2校が昨今の中心部のド-ナツ化と少子化から児童数減少で平成30年(2019)4月、1世紀を経て再統合「犀桜小学校」として開校することになりました。金沢市では、統合校の校舎は、現在の菊川町小学校の校舎を取り壊し、その場所に2022年度までに新しい校舎を建てる。新校舎完成までは、現在の新竪町小学校の運動場に建てる仮校舎を使う。と発表しています。
(本多通り・右旧新竪町小体育館)
(元新竪町小学校)
(つづく)
参考文献::「金沢古蹟志」第5編13巻14巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行 新竪町公民館創立50周年記念誌「しんたて」新竪町公民館 平成15年3月発行
旧町名をさがす会(金澤編)http://d.hatena.ne.jp/cho0808/