【小松市内】
11月17日“ほっと石川観光ボランティアガイド協議会”の小松研修会が細工町の本蓮寺で開催され参加しました。県内から集まった約90名の熱心なボランティアガイドの皆さんが雨の中、小松市内の社寺を巡りました。
(本蓮寺:文安元年(1444)能美郡津波倉に創建され、小松城主村上義明の招きにより小松に移転し、その後、本願寺直系寺院として、藩政期は小松の真宗諸寺を代表する触頭をつとめます。明治11年10月5日、明治天皇北陸御巡幸の際に小松行在所になりました。)
(本蓮寺・5本筋の朱色の土塀)
私も小松は、粟津温泉や勧進帳の安宅の関跡、曳山子供歌舞伎の”お旅祭り“は知らないわけではありませんが、最近は、”ブルトゥーザーのコマツ”の印象がヤタラ強くて、また、市内には、あまり行く用もなく、たまに国道を通り抜けるだけでした。
一向一揆も芭蕉にも大いに関心がありますが、所縁のある小松についても本の中だけ、“何時か”と思いながらも自ら出向くだけの行動力もなく、あまり知りませんでした。今回は、雨がシトシト降りしきる中、短い時間でしたがガイドの話を聞きながら大きな真宗寺院や著名な神社に行き感じるものもあり“何時かまた”と思いながら帰ってきまった。
今回、特に印象に残った“芭蕉と小松”について、見たこと、聞いたこと、感じたこと、そして撮った写真等など少しまとめます。
(建聖寺の立花北枝が彫ったという芭蕉像)
元禄2年(1689)7月24日(太陽暦9月7日)「奥の細道」の道中で小松に着いた芭蕉は、1泊した後すぐに立つつもりが、小松の人々が芭蕉に教えを懇請したため句会を重ねています。
(当時の小松は、すでに絹織物の産地として、地方の町としては相当の経済力があり人口も1万人を超えていたといいます。芭蕉は小松を訪れたあと山中温泉に滞在し、その後ふたたび小松を訪れています。この旅で同じ地を2度も訪れたのは小松のほかになく、当時金沢や小松の俳諧が盛んだったことが窺えます。)
7月24日。朝、金沢を出発、北枝や竹意は小松まで随行し、午後4時過ぎに小松に到着しその日は近江屋に投宿します。
(山王宮(本折日吉神社))
7月25日。小松を出発しようとしたところ、小松の多くの人たちに引き止められて、予定を変更し、多太神社を訪ね、この後、山王宮(本折日吉神社)神主藤井伊豆(鼓蟾)の宅に行き、ここで句会開催。この夜は藤井宅に泊ります。
“しをらしき 名や小松吹く 萩すすき 芭蕉”
(土地への挨拶吟で、小松、かわいい名前。今、浜辺には秋の風が吹いて萩やススキの穂波をなびかせている。)
(建聖寺の”しをらしき…"の芭蕉の句碑)
7月26日は雨になり出発をあきらめ、特に午前10時ごろから風雨激しくなり、夕方になって止み、夜、越前寺宗右衛門宅での句会に招かれます。
“ぬれて行や 人のをかしさ 雨の萩 芭蕉”
(雨に濡れる萩には風情があり、濡れながら眺めている人の姿も心も風情がある。)
7月27日は快晴で、兎橋神社(お諏訪さん)の祭礼(西瓜祭)に参拝し、山中温泉に向かう途中、多太神社を再び訪れます。
“むざんやな 甲の下の きりぎりす 芭蕉”
(この句が決定稿か・・・)
“あなむざん 甲の下の きりぎりす 芭蕉”
(初案か・・・)
(多太神社の”あなむざん・・・”の芭蕉の句碑)
註:“きりぎりす”は、今の“ツヅレサセ(綴れ刺せ)コオロギ”で、兜の下で鳴いているコオロギのこと。コオロギは、実盛の亡霊!!?
(多太神社の甲冑記)
芭蕉は「奥の細道」本文で山中温泉への途中に那谷寺に立ち寄ったように記していますが、曾良の随行日記によると山中温泉で8泊の後、曾良と別れて北枝とともに途中、那谷寺を訪れ、8月6日生駒万子の会うため小松に戻り、大聖寺全昌寺へということらしい。
“石山の 石より白し 秋の風 芭蕉”
(那谷寺の石は、白風と呼ばれる秋の風が吹き渡り、あたりを一層清澄な気分にさせる)
那谷寺:白山を霊山として開いた泰澄法師が養老元年(717)に創建した古刹である。南北朝時代の戦乱により焼失したが、加賀藩三代藩主の前田利常が再興した。池の向こう側には巨大な岩壁があり「奇岩遊仙境」と名づけられている。
(斎藤別当実盛の兜のレプリカ・実物は後ろのロールカーテンの中、写真×)
≪あな無慚、実盛にて候≫
寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦で大敗を喫した平家の平維盛軍は、加賀の国江沼郡篠原で再陣し義仲軍と対峙しましたが、義仲の前に総崩れになりました。この時、踏みとどまって勇戦し討ち死にしたのが斉藤別当実盛でした。
(多太神社の斎藤別当実盛の像)
実盛は、かって義仲の命を救った恩人で、老いの身をあなどられまいと白髪を染めていました。首級を洗わせた義仲は涙の対面の後、ねんごろに弔いその着具であった甲冑を多太神社に納められました。時の実盛は73歳の老齢でした。
(多太神社)
(義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時、2歳であった幼い義仲をかくまい、木曾の中原兼遠(義仲の養父)に送り届けたのが実盛で、義仲は実盛の首を前にして、自分に今があるのはみな実盛のはからいによるものといい、さめざめと泣き、その首を手厚く供養することを命じたといいます。)
はじめ、源義朝に仕えた実盛は、平治の乱で義朝が失脚した後、平宗盛に仕えます。実盛を討ち取ったのは、あの漫画家の手塚治虫のご先祖手塚光盛ですが、首実検をしたのは、実盛の旧友である樋口次郎兼光で、実盛の黒く塗られた白髪頭を見て、樋口次郎兼光が「あな無慚、実盛にて候」と涙を落としたと伝えられています。
(多太神社の宝物館にある系図のアップ)
謡曲「実盛」に、「樋口参りただ一目見て、涙をはらはら流して、「あなむざんやな」とうめき「老い故によき敵と思われないのは悔しい、最後の戦いでは鬢も髭も黒く染めて出陣したい」と実盛が言っていたことを樋口は覚えていたという下りになっているそうです。
芭蕉の話をするつもりが、書いているうちに、時代は違うとはいえ同世代の斉藤別当実盛の生き様に心奪われ、脱線してしまいました。そして、また、余計なことを・・・・。
今、放送中のNHK「平清盛」です。11月18日(日)。小松生まれの白拍子“仏御前”が登場、清盛メロメロ・・・。“倶利伽羅合戦”や“斉藤別当実盛“は何時・・・。後1ヶ月ちょっと、時間がありませんね。
何時か!! NHK大河ドラマの「木曽の義仲」?・・・期待してま~す。
参考資料:多太神社のパンフレットなど