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藩政期の金沢片町①“町名の起り”と“金沢町名帳”

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【金沢片町】

この町は、金沢通町筋町割付に、片町二町三十三間三尺(2,790m)とあり、旧藩中は金沢の本町二十七町の一町で、犀川に直角に延びる北国街道の両側町で、東は堂形前、西は川南町に続きます。この地辺は、河原の中島だった頃は片側に掛作りの店だったという。それゆえに片町の町名が起ったと言われています。また、堂後屋(どしりや)の伝来には元和元年(16158月、利光卿(3代前田利常公)の印書に、片町どしりや太左衛門と載せられていて、元和以前より片町と呼ばれていた事が分ります。亀尾記に、片町は昔、尾坂下にあり、その頃、一方は城郭で、南側のみに町家あり、それゆえに片町と名付けたとあり、慶長7年(1602)に今の片町の地へ移転し、旧名から片町と呼んだと記載されています。

 

(現在の片町)

 

 

(お城になって移動した尾坂下辺り・米町?か)

 

堂後屋伝記によると元祖三郎右衛門は、能州字出津より天正10年(1582)に金沢へ出で、城辺りの米町?に居住したとあり、そこが後に藩の用地となり、片町へ転地を命ぜられます。以前の城辺の町地の上に米商人が居住し尾坂下といったらしく、亀尾記のこの伝説は、言い過ぎだと楠肇の小橋天神記に書いています。転地した片町は、それまで川原だった所で民家を移し、その後、寺庵を移し残らず隣地に家々が建ち連なり、俗に川原町と呼んだとあり、民家の片辺に建ち続いたところを片町と呼んだ云々とあります。片町は片原町の意で、本名は河原町なりとの説さもあるべしと、金澤古蹟志(巻16城南片町伝馬町筋)に書かれています。

 

金沢町格:藩政期町人の居住地は、本町、七ヶ所、地子町、相対請地、寺社門前地に格付けされ、町人の身分は、町並役を負担できる町人を領主は本町人と呼び(領主の荷物と人を運搬出来、町夫(1万人)・運搬用伝馬を常に66頭を常に用意し負担する。)それらを引き受ける役が住む町を本町と云いました。金沢町では、承応3年(1654)には27町、元禄9年(169639町、天明5年(1785)には40町、明治元年(186881に増加しています。本町に続いた「七ヶ所」は、領主に人足(2000人)だけを負担できる町々を七ヶ所と云い、承応3年(1654)に成立し明暦3年には7ヶ所ですが、元禄9年(169613ヶ所、文化年間には18ヶ所に増えています。地子(借地料・税)を払う町を地子町。他、相対請地、寺社門前地はまたの機会に譲り、ここでは割愛します。)

 

(文化8年頃の片町・金沢町名帳より)

 

拙ブログ

広坂通りから香林坊④「金沢古蹟志」の向田香林坊伝

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12395268257.html

藩政期の金沢の町格

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11928137734.html

 

 

犀川小橋(香林坊橋)

金澤橋梁記にも香林坊橋とあり。楠肇が書いた小橋天神記に、今の香林坊橋を犀川小橋と云い、またの名を道安橋ともいう。昔は犀川二流に流れて、大流に架かる橋を大橋と云い、小流に架かる橋を小橋と号します。寛永8年(1631)の夏、火災以後、城下の町街を改めた時、犀川を南北の岸へ一流に流し、小流は惣構の堀に用いました。また、道安橋と称したのには、小橋天紳社僧道安が橋側に住んで居たからと云われています。

 

楠肇:楠部 芸台(くすべうんだい・17591820) 父は鳳至郡の農家出身でしたが金沢に来て商いをします。芸台は号で、3歳のときから書道を学び、唐の大家欧陽詢の書風を再現する能書家で、能書学識を藩に認められ、享和2年(1802)に町会所記録方横目肝煎に抜擢されています。 芸台は南北朝時代の忠臣楠 正成の末裔を名乗り、頼 山陽も楠公信奉者でしたので、芸台頼 山陽の元へ長男を遊学させて縁ができ、芸台の死後、父親思いのが山陽に撰文を依頼、芸台頼 山陽の共通の友人であった寺島応養からの熱心な勧めで、撰文など書かなかった頼 山陽の心を動かしたと言われています。文政3年(1820929日死去。61歳。名は。通称は金五郎。号は芸台(うんだい)。著作に「加賀古跡考」

 

拙ブログ

犀川大橋からスクランブル交差点③旧河原町・古寺町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12529898890.html

 

 

 

文化8年(1811)の「金沢町名帳」

金沢町名帳(川南町、片町、木倉町)には、片町の家数61家。川南町、片町、木倉町の肝煎は幸蔵とあり、川南町の組合頭は宮竹屋喜左衛門・片町の組合頭は唐物屋東蔵・木倉町の組合頭平松屋徳兵衛とあります。顧客を武士階級とする町人で構成され、兼業を含め質屋は8軒。を筆頭に、仏具・古道具商、小道具・地謡役者、古建具・古かね、表具師の住に関する商いが4軒。小間物3軒。小間物・墨・筆、筆、小間物・槙木3軒。足袋、船才許役加入・足袋、蓑・笠2、の生活に関する商いが4軒。造酒・味噌、八百物、請酒、煮売・請酒、団子・せん餅、生菓子、茶等、食に関す商い7軒。塗物・赤物2、椀・家具・赤物、が3軒。4、紙・小間物、紙合羽6軒。呉服・大物、仕立物2、糸6軒。扇子、紅、鬢付3軒。米仲買・紅1軒。蔵宿1軒。御手判問屋1軒。京都中使1軒。借家人入置4軒。肝煎手伝1軒。組合頭役・貸見せ1軒。御普請会所遠所川除図リ役1軒。出銀所御かね遣役1軒。町年寄2軒。

 

(私が知る限り、藩政初期から文化8年(1811)まで残っていた家は、あの芭蕉ゆかりの町年寄宮竹屋純蔵家、当時、葉茶屋だった椀・家具・赤物茶屋新七家、町年寄香林坊兵助家、そして次回に紹介する当時団子屋、文化8年葉茶屋堂後屋(どしりや)三郎右衛門が金沢町名帳に書かれています。)

 

 

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」著者日置謙  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

おたま団子-諸江屋

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