【犀川大橋→片町スクランブル交差点】
享保(1716~1736)の末ごろまで、旧川南町は川(河)原町と呼ばれ旧河原町は後川原町と呼ばれていたそうです。また、古寺町も昔は河原町と書かれています。
(川南町:明治4年片町と合併、今は片町1・2丁目・河原町:藩政初期は、後川原町と呼ばれ本町の一つ 、昭和41年22月1日に今は片町1丁目・古寺町:藩政初期に寺が集められ、元和の頃、ほとんどが寺町台へ移し、跡地を古寺町呼び、昭和40年9月1日に今の片町2丁目)
(安政年間に絵図より)
小倉日記に、享保18年(1733)4月26日に伝馬町より出火。川原町・後川原町・大工町が類焼とあります。享保の末頃迄も川南町辺りを河原町と呼びたりしこと知られけり。また、今いう古寺町も、昔は河原町と呼べり。高野山真言宗稲荷真長寺の由来書に、慶長12年(1607)に関東よりこの地に来て、中村刑部の取次で犀川河原町付近に寺地拝領したとあり、慶長15年(1610)には寺を造ったとあります。その寺地は香林坊橋下の古寺町入口富永氏の旧邸(今の香林坊下駐車場入口辺り)辺りでした。この外、寺の由来
にも古寺町の地を河原町と呼んだと書に載せています。
小倉日記:編著者等 小倉屋太右衛門・小倉屋八郎左衛門∥著 森田良見∥編 出版年・書写年、嘉永2年( 1849 )8月 石川県立図書館森田文庫
(竪町も本名は竪河原町と呼び、元は河原が町地となり河原町と云いましたが、河筋に添い竪に繋がる町にで、堅河原町とは呼んでいたが、後には略して竪町・新竪町と読んだたと新竪町名願寺の由来書に、文禄元年()金沢河原町に於て寺建立仕と書かれています。.竪町、新竪町も本名は河原町と呼んだと聞きます。但し文禄元年の頃は、この地はまだ町地ではななかったという。)
(寛永8年(1631)の石浦神社氏子七ヶ村の絵図に川南町と書かれています?)
中河原之郷・福蔵院(俗に小橋天神)
元録3年(1690)3月、古寺町の福蔵院窓膳が筆記した小橋天神由来書に、当社は天満天神、往古河北郡吉倉村に御鎮座のところ、4代以前別当道安が霊夢をこうむり、香林坊小橋の爪河原に奉還のところ、近郷河原はわずかに家居10軒ばかりがあるところでしたが、追々家が建ち、春秋に祭礼の儀式も出来るようになったと云います。元来当社氏子地は、香林坊の小橋より犀川大橋、古寺町近郷は、往古河原にて、五ヶ之庄・富樫之庄・石浦之庄の3ヶ所の出合の河原で有るところから、当院(福蔵院)は中河原之郷と唱へ、産子繁栄之祈祷札を配り、氏子繁昌の祈念を仕ったとあり。中河原というは、今の片町・河南町の地法にて、その上、この地辺犀川二瀬に流れたる中嶋なりしところから、世の人は中河原と呼び、その後、この地が町地になり、町名を立て中河原町と呼んだと有ります。
(片町きらら後、ここの宝来寺(小橋菅原神社)がありました)
(福蔵院(俗に小橋天神)は、藩政期修験派山伏の旧宝来寺で、元禄3年(1691)の略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転し、慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公出陣に際し利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。藩政期には今の片町きららの後にあった宝来寺が明治の神仏分離で小橋菅原神社になります。一時、ホテルエコノ金沢片町裏に移りますが、平成27年(2015)9月に取り壊され月極駐車場になり、今は飲食街になりました。
(平成27年まであった小橋菅原神社)
(現在は神社跡の飲食街)
旧中河原町(川南町)
三壺聞書に、元和6年(1620)の頃の記載に、中河原町に風呂屋あり湯女を置いていたという記事があるそうです。また、寛永8年(1631)の条に、犀川橋爪法船寺の門前より出火し、河原町一面が火と成り南風強く、中河原町の大橋を焼け落したという。また貞享2年(1685)卯辰山の日蓮宗妙應寺由来書に、天正13年(1585)金澤枯木町にて寺地を拝領するが、翌年、御城下に惣構堀の普請で、さらに替地犀川中川原に拝領するが、侍屋敷になり召し上けられたと書かれています。
(今の旧河原町)
旧河原町(後川原町)
この地は、すべて犀川の河原で、3代利常公の時、坂井就安に命じ、町地とし旧古寺町、片町(旧川南町含む)、今の河原町(後川原町)の三筋の町を河原町と呼びました。片町川南町を中河原町と呼び、その後、後川原町を河原町と呼び、古寺町の一町を河原町と呼んだと聞く。片町・河南町の一町は、三筋の中央の町は中河原町と呼んでいました。
(今の河原町)
この町は、旧藩中は本町の一つで、元禄9年(1696)の本町肝煎裁許附河原町とあり。俗に後河原町とも呼んだと、元禄6年(1693)の士帳に後河原町と書かれ、三壺聞書に、中河原町とあるのは、河南町および片町を云う、そのかみ今いふ河原町・古寺町もみな古名は河原町と呼び、その中央の筋を中河原町(川南町・片町)と云いました。この町地は昔は犀川の河原で、利常公の時、犀川二瀬に分け、一瀬は香林坊際の小橋の下を流れ、ことに水深く船などを入れるほどなりしを、坂井就安へ命じて一瀬とし中洲を町地とし、これが河原町となったという。
(今の旧古寺町)
旧古寺町(河原町)
この町は、往昔は河原町と称し、一町みんな寺屋敷だったと云う。3代前田利常公の時、泉野寺町ヘ移転を命ぜられ、跡地は諸士の邸地に賜はり、それより古寺町と称したと云われます。この地の寺院共に転地を命ぜられし事は、三壺聞書に、元和2年(1616)の頃、瀧與右衛門と云う人、石川・河北両郡の裁許を命じられ、犀川大橋より坂の上は畠で、ところどころに小松があり、河原町(古寺町)の寺々を、その土地に移します。
(真長寺) (浄安寺)
(妙典寺)
貞享2年(1685)の諸寺院由来帳等によると、寺町の浄土宗浄安寺、日蓮宗立像寺、日蓮宗妙典寺、法華宗実成寺、曹洞宗龍淵寺等は元古寺町(河原町)にあり、元和2年(1616)に、府内に散在する寺院を卯辰山、泉野の両所に転集するとあり、寺院の移転は、各寺院の由来書によると元和元年(1615)からだともいえます。外様の加賀藩は、大坂夏の陣後、いち早く泉野の台地に寺院を集め、越前方面からの防御として寺社を移転させ、いざと言う時に備え、城の護りとした事が窺えます。
(元和元年:慶長20年(元和元年(1615)7月13日)5月の大坂夏の陣で徳川幕府は大坂城主の豊臣宗家を攻め滅ぼし、応仁の乱以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、幕府は、戦乱が終わり、武器をおさめ平和の時代の意味を込めて年号は元和をとします。)
古寺町古伝話
この町は、大昔、寺跡の先に古墳等の遺跡だと云われています。古伝話には、山伏福蔵院(小橋天神)の向かいに阿部氏の邸地門脇下の厩下(うまやした)に、古墳の石棺式石室あったと云われていますが、実否については詳らかではないという。明治の廃藩置県後、阿部氏はこの邸地を売却し、この地の主が退去して家屋は取り壊され、厩の後は商店になったという。
(現在の富永氏辺り・香林坊下)
(阿部氏と富永氏の屋敷が見える。安政年間の絵図より)
(つづく)
参考文献::「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行