【犀川大橋→片町スクランブル交差点】
犀川のこの橋と浅野川の橋は、金沢の上下の往来橋として比べられる橋であることから昔から大橋と呼ばれていたと云います。三壺聞書によると寛永8年(1631)の条に中河原町の大橋とあり。拾纂名言記に、坂井就安在勤の頃、犀川が二瀬に分れ、一瀬は香林坊小橋の下を流れていたのを、3代藩主利常公は坂井就安に命じ、犀川の川上を切り一瀬とたし中島(竪町、河原町、片町など)の地をことごとく町地とします。古寺町の山伏福蔵院の曲来書に、慶長19年(1614)河原町小橋の詰に第地拝領するとあり、今の香林坊橋辺りのようです。昔の犀川は二瀬があり大橋と小橋の二つの橋が有り、貞享2年(1685)泉野寺町金剛寺の由来書に慶長12年(1607)に犀川一ノ橋の辺りに寺地を拝領したとあり、藩政初期には大橋とも一ノ橋とも呼ばれていたそうです。金澤の街中で第一の橋ゆえにそう呼ばれていたのでしょうか、また、金沢橋梁記には「いさごの橋」と書かれているそうですが、他に文書には見当たりませんが、浅野川大橋の古名が「とどろき橋」といわれていたので、犀川大橋にも古名があったのでは?追考すべしと、森田柿園が「金澤古蹟志」に書いています。
現在の大橋は
形式:一径間鋼曲弦ワーレントラス橋(有形文化財の登録形式は曲弦トラス単鋼橋)
橋長:62.3m・幅員:18.7m(完成当時の幅員は車道12.5m、歩道1.8mX2)
犀川大橋の歴史
地域に共存する犀川大橋
http://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb2_jigyo/bunkazai/saigawa/img/history_title.jpg
(延宝の金沢図・犀川大橋と川南町)
三壺聞書:前田利家公が織田家家臣の時から、加賀藩の成立、藩主の生い立ち、業績等の詳細、家臣団の名簿等を二十二巻に記載。著者は前田家家臣山田四朗衛門とか原田又右衛門の作とかと云われています。
拾纂名言記:前田利長公・利常公について天和2年(1682)に書かれたもので、編著者毛利詮益と言われています。
坂井就安:藩政期、それまで二本あった犀川の流れを一本にする土木事業を加賀藩の医師坂井就安が行っており、「太閤記」の著者小瀬甫庵道喜の長男。
福蔵院:山伏本山派、香林坊橋(犀川小橋)近くあり、宝来寺福蔵院と号し妻帯と成り子孫相続し、今はありませんが、数年前まで片町のビル下のトンネルが参道だった小橋菅原神社。
金剛寺:曹洞宗の寺院で天正年間(1573~1592)に前田大炊の第三子が出家し、越中国射水郡守山の海老坂に創建し、後に犀川大橋の近くに奥村家の分家奥村周防が寺地を拝領し、さらに現在の寺町に移ったという。
(犀川大橋・福島秀川画より)
犀川橋場町
変異記に、享保18年(1733)4月26日、伝馬町後養智院辺り小家より出火、五枚町、橋場町議類焼。と有り犀川橋爪を昔橋場町と呼んだと。橋場辺りは湊で、諸商売売人もこの地を最上と考えて競って商店を開いたと金澤古蹟志に書かれているが、何処を指しているのかは不明。
(犀川大橋詰の木橋の大橋図より)
五枚町
元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、五枚町が見え護国公(5代綱紀公)年譜に享保18年(1733)4月26日犀川川除町より出火して五枚町等が類焼したとあります。元は3代利常公の頃、銀座、蝋燭座・豆腐座の三座があり、蝋燭座は下堤町にあり、金屋彦四郎が仕切っていたので彦四郎を蝋燭屋彦四郎と呼んだという。豆腐座は五枚町にあり豆腐屋奥三助先祖勤め、この三座の税銀は三座運上銀と云い、豆腐座の運上銀は銀五枚で、この頃、この町民は豆腐座の外に家建ってなかったので、運上銀の高で五枚町と町名として呼び初めたというのは、豆腐屋奥三助の家伝と伝えられています。
(旧五枚町)
今の忍者寺といわれている泉寺町妙立寺由来書には、開祖日通が寛永20年に当地運上町に請地を致し居候処とあるので、御用地に成り召し上げられ石動山伽耶院旅屋敷に相渡し載せたる運上町は若しかして五枚町の事ではないかと書かれています。金沢事蹟必禄には、五枚町・六枚町は地子銀の枚数で名付けられていましたが、しかし、この妙立寺伝説はどうも眉唾ものかも・・・。五枚町は明治4年(1872)4月戸籍編成の 時、十三間町へ合併しました。
(犀川大橋詰の大橋の看板)
余談:「大野庄用水」は、明治以前には「五枚町用水」と呼ばれていたそうです。豆腐座は運上金が年に銀五枚だったので五枚町といったと言われていたのは地子銀5枚から来ていることは前にも書きましたが、いったい地子銀5枚と言うのは今のお金で幾らになるのか知りたくなり調べて見ると、文化文政期の1両10万円で計算すると、金1両は銀60匁として、銀1枚は43匁で計算すると(銀5枚は、銀1枚43匁、5枚で215匁、60匁が100,000円で計算すると約36万円)になりました。
(安政年間の絵図より・十三間町隣りに十九間町が有りました)
十九間町
この町名は明治時代には既になく、前は十三間町の入口の犀川大橋の方から河原町、大工町の出口辺りを十九間町と云ったそうです。5代護国公年譜には、享保18年(1733)4月26日犀川川除町より出火し、十九間町58軒、十三間町18軒、また、十三間町5軒が焼け、変異記によると、伝馬町後養智辺りの小家より出火、木倉町、出大工町、古寺町、川(河)南町、河原町、大工町・十九間町、十三間町迄が焼失、妙源寺は無難とあります。往古は此の地は人家は少なく、十九間町は戸数十九戸、十三間町は十三戸で、十九間町と十三間町との間は、空き地で両町が分けられていましたが、明治4年(1872)4月戸籍編成で、町名を取調べ、十九間町を廃し、正式に十三間町へ属した。ただし、それより以前も世間では十三間町とも呼んでいたそうです。
(旧十三間町)
拙ブログ
昔のまんまの町名④「十三間町」「十三間町中丁」「中川除町」
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12446898973.html
(つづく)
参考文献::「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行・新竪公民館創立50年記念誌「しんたて」金沢市新竪町公民館 平成15年3月発行 、「加能郷土辞彙」日置謙著、「金沢町人の世界」田中喜男著、「金沢町絵図・名帳」など