【犀川大橋→片町スクランブル交差点】
藩政期、片町の犀川寄りの町を川南町と呼んだと云われています。何故、犀川大橋の北東に有るのに川南町と呼ばれていたのでしょうか?人から聞かれ、傍と困り頼りの金澤古蹟志を調べてみると、南町の犀川寄りの町ということから川南町と云ったと書かれていました。(川南町の表記は、金澤古蹟志・加能郷土辞彙には河南町と書かれています。)
(今の犀川大橋・手前が旧川南町)
(金澤古蹟志を要約すると「慶長の頃、今の尾山神社の辺りに三筋の町地があり、真ん中の通筋を南町と云い、北国街道は南町より犀川まで直ぐにつながり、その城南の町地をすべて南町と称し、今の片町スクランブル交差点から犀川大橋の間、約142mを川南町と呼よんでいたそうです。藩政初期、今の尾山神社が金谷出丸になった頃、南町と堤町が今の場所に移転させられ、南町、川南町の間に石浦町、片町を挟むことになり、南町と川南町との間が隔絶します。」と有り、また、加能郷土辞彙には、川南町は古くは片町と共に中川原町又は単に川原町と書かれています。享保18年(1733)4月26日伝馬町より出火、川原町・後川原町・大工町類焼。と有り、享保の末頃迄、川南町(河南町)を川原町と呼んでいたらしい・・・。明治4年(1870)4月戸総編成で、町名改正の時川南町の町名が消え片町となります。)
(文化8年の金沢町名帳に地図)
文化8年(1811)の金沢町絵図名帳の川南町の頁には、家数29軒(橋番含む)、本町肝煎清金屋七兵衛、組合頭宮竹屋喜左衛門とあります。この町は当時片町と同様武士階級をお客様とする大店の御用町人と北国街道に面する本町でありながら、犀川大橋に接する立地から近隣在住の農民、町人にも利便な地区だったようです。
(安政6年4月材木商の堂屋久兵衛割家願いにて一軒が増え30軒になったと書かれています。)
(川南町の住民は、銭屋兼小間物商・魚商・材木商・麩こんにゃく商・紙商・みの笠商兼米仲買・蒸し菓子兼合薬商・質兼足袋商・質兼呉服古手商・合薬兼道具商・瀬戸物商・みの笠兼ろうそく商・紙合羽商・畳商・小間物兼打綿商・畳表兼みの笠商・足袋商・絞り染兼香具商・下駄小間物商・酒造業・みの笠・呉服兼古手商・たばこ商・衣料、呉服商・法衣仕立職・質屋など兼業が多く、横目肝煎(町年寄
りを助ける町役人)や町年寄末席役の住まいなど多岐に渡っています。)
(今の片町1丁目・白い建物辺りが宮竹屋喜左衛門家)
文化8年(1811)の金沢町絵図にある大店には、前口十一間の蒸し菓子兼合薬の道願屋彦兵衛家、前口二十弐間の酒造業の宮竹屋喜左衛門家等があり、他に前口十間以上の店も数件描かれていますが、前口五間前後の店には、斜め線で消した跡が12軒もあり、横には新たな店名か書かれていて経営者が変わったことを分かり、当時も今と変わらず繁華街なるがゆえの栄枯盛衰が窺えます。
(右の角の長屋が幕末の道願屋・福島秀川画、香林坊地下壁画より)
川南町蒸し菓子商道願屋彦兵衛
道願屋は、川南町の旧家で、むかしは犀川橋爪東側に数間の家屋はみんな道願屋の旧邸だったそうです。道願屋の生菓子と称し、有名な御菓子屋で「氷室の万頭」の元祖といわれています。寛政の頃(1789~1801)、零落して店をたたみ、貸屋として子孫はわずかに生計を立てたと云います。
(氷室の万頭は、加賀藩前田家の5代藩主綱紀公の頃、片町の道願屋彦兵衛が、「氷室の日」に高価で希少な当時の天然の雪氷のかわりに、庶民の口に入るようにと考案したというもので、”万頭“と書くのは「下積み時代を経て万(よろず)の頭(かしら)になるように」という願いが込められているのだといいます。)
(文化8年の金沢町名帳より)
拙ブログ
“心の道“癒しのスポット⑥誓願寺
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11168424298.html
“氷室の万頭”と“半化粧の蛸
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11292082094.html
川南町の酒造業の宮竹屋喜左衛門
宮竹屋には川南町で酒造業と旅人宿を営んでいた宮竹屋喜左衛門家と片町の薬種商売を営んでいた宮竹屋伊右衛門家があります。川南町の宮竹屋喜左衛門家が本家筋で、加賀国能美郡宮竹村の出で、天文の頃(1532~1555)、尾山御坊の西町辺りに移り住み、天正11年(1583)前田利家公が金沢に入城する頃には、旅人宿を営んでいたと云います。
(白い蔵は宮竹屋・福島秀川画、香林坊地下壁画より)
寛永3年(1626)には、藩から旅人に対して手判問屋(関所手形を発行する業務)が与えられますが寛永8年(1631)の大火で家を焼失し、犀川の区画整理で出来た川南町に新築し、御用商人となるが、特別な富裕町人ではなかったと云う。しかし、2代目の伊右衛門道喜は養子で、実家の薬種商売の権利を譲り受け兼業にします。
3代目の長男勝則は薬種商売を継ぎ片町に店舗を構え、次男は手判問屋を受け継ぎ、2代目の伊右衛門道喜は、南町の中屋、尾張町の福久屋と同じに藩主前田氏の三味薬(紫雪・耆婆万病円・烏犀円)の調合許可を願い出、天和元年(1681)に許可になり、すでに2代目が病死していて3代目勝則が相続し、亀田の苗字を許され、宮竹屋が本格的に薬種商としての活動がはじまります。
(芭蕉の辻の碑、今は中央通りの元宮竹屋伊右衛門家跡)
しかし、3代目勝則の病弱のため、貞享3年(1686)に薬種商を隠居し、三男の勝豊(俳号小春)が伊右衛門家の家督を引き継ぎ、両家は明治に引き継がれます。
(芭蕉の辻碑より、今の片町スクランブ交差点)
有名な話に、元禄2年(1689)年の7月15日(新暦8月29日)に松尾芭蕉が金沢に入り24日まで次男喜左衛門(俳号竹雀)家に滞在したことはよく知られています。さらに喜左衛門家は「菊一」の銘柄で酒造業として栄えます。伊右衛門家は、7代目の亀田純蔵(鶴山)が九谷焼の産業化を試み卯辰山に「春日山窯」を開窯に貢献したことは有名で、明治になり当主が亡くなり、親交のあった当時、土建業で実業家の辰村米吉氏が引き継いだのは、知る人ぞ知るお話です。
拙ブログ
松田文華堂③青木木米
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10774616468.html
(つづく)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著、「加能郷土辞彙」日置謙著、「金沢町人の世界」田中喜男著、「金沢町絵図・名帳」など