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谷口吉郎氏と「金沢市伝統環境保存条例」

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【金沢市】

北国新聞社が発行する季刊誌「北國文華第78号」に金沢工大の水野一郎先生がお書きになった“谷口吉郎の金沢”の金沢のまちづくりや建築保存の項目に、元金沢市長山出保氏の著書“まちづくり都市金沢”「金沢市伝統環境保存条例」の起案者は谷口吉郎氏だと紹介されています。

 

(金沢市伝統環境保全・石川門と百間堀)

 

“まちづくり都市金沢”には1967(昭和42)年のことです。当時に徳田與吉郎市長が金沢市出身の建築家谷口吉郎氏から「金沢の持つすぐれた環境が、都市に近代化の中で調和し保てれていくべき」との示唆を受けました。そこで市長は、日本画家の東山魁夷氏をはじめ、当時、国立文化研究所長の関野克氏、国立近代美術館京都分館長の今泉篤男氏、学習院大学法学部長の中川善之助氏のほか、石川県知事、金沢大学長らと意見交換を行いました。

 

(北國文華)

 

その議論から、翌1968年、全国で初めて伝統的な環境の保存を定めた「金沢市伝統環境保存条例」が制定されました。この条例では都市開発に伴う本市固有の伝統環境の破壊を極力防止するとともに近代都市に調和した新たな伝統環境を形成する」(第一条)と定められました(第4章参照)。これが「保存と開発の調和」をまちづくりの基本とした最初でした」とお書きになっています。

 

(長町と大野庄用水)

 

実は「金沢市伝統環境保存条例」については、今はどうか分かりません、私は17年前、金沢ボランティア大学校観光コースで教わっています。当時、聞いた話を覚えたてのWordを叩いて作った講義禄によると、昭和41年(1966)国が、京都、奈良、鎌倉等かって都であった都市を保存するため指定した通称「古都保存条例」に習い、昭和43年(1968)に金沢市は全国に先駆け制定した「金沢市伝統環境保存条例」の起案者は谷口吉郎氏だったことが書かれています。

 

(金沢市伝統環境保全・土塀と町家)

 

その「金沢市伝統環境保存条例」は、500年にわたり金沢では大きな戦火や自然災害にも見舞われなかった金沢市の歴史的環境と豊かな自然環境を守り「保存と開発の調和」を実行することが、金沢らしい近代的都市づくりを進める元となると有ります。以後、金沢市こまちなみ保存条例、金沢市用水保全条例、金沢市屋外広告物条例、金沢市斜面緑地保全条例、金沢市まちづくり条例、金沢市寺社風景保全条例など、関連条例が次々に制定され、金沢では、それらに関係する事業が展開されています。

 

 

(金沢市こまちなみ保存)

 

(金沢斜面緑地保全)

 

(私が谷口吉郎氏のお名前を存じ上げたのは、この時ではなく、20代の前半、将来、何をするかも決めて居なく、何も出来ないのにプライドだけが高い私は、ただ、単純にこれからオリンピックの始まる東京だ!!と東京行きの取っ掛かりを探して金沢で今云うフリーターの様なことをしていた頃でした。当時、祖母の知人で、祖母が亡くなっても代わらず金沢に来ると我が家に寄ってくれる文化財関係の偉い方が、昔から来るたびに、坊主、東京に来るかと言っていたことを思い出し、社交辞令で、軽い気持ちで言ってくれていたのを真に受けて手紙を書くと、人を紹介するからと連絡があり、紹介された方は谷口吉郎氏と師弟関係にある方で、当時、勤務先の国立競技場にあったオリンピックの施設の建設事業の事務局に尋ねると、彼はボット出の見ず知らずの私に恩人の谷口先生の郷里の方ですからと、何軒もの面接先を紹介して頂いた事が思い出します。その頃は何故谷口吉郎氏が繋がっていたのかは知る由もありませんでしたが、後に谷口氏とその後押しをしてくれた偉い方の繋がりは、四高と明治村だったことを知りました。)

 

(明治村の鹿鳴館・ウィキペディアWikipediaより)

 

谷口吉郎氏の業績で忘れてはならないのは「博物館明治村」の発案です。明治村は昭和40年(19653月に開館します。初代館長となる建築家谷口吉郎氏は、昭和15年(1940)、老朽化により「鹿鳴館」が取り壊されたことに心を痛め、明治という時代の象徴であった建築を保存が出来なかった無念さが、明治建築を移築保存し公開する事業を始めるきっかけとなったと言われています。

 

東京日日新聞(後の毎日新聞)の学芸部から原稿依頼を受け、谷口は「明治の哀惜」と題する文を寄稿し、昭和15118日掲載され、明治建築の保存を呼びかけています。

 

戦後になり経済復興に伴う破壊行為が進み、残された最後のチャンスの時期に「博物館明治村」は開設されます。「明治の哀惜」投稿から約20年。旧四高の同窓会が開かれ、谷口はこのとき”明治村構想“が語られ、その場にいた四高同期で当時の名古屋鉄道副社長土川元夫、文部省国宝監査官田山方南は谷口氏の意見に賛同し、この時から明治村構想が始まったそうです。

 

初めは関東地方でと言う事でしたが、最終的に土川元夫が経営陣を務める名古屋鉄道の協力により、現在の愛知県犬山市に開設が決定し、昭和36年(1861)設立準備委員会が発足、翌年財団法人明治村設立認可をうけ、渋沢敬三が初代会長に就任し、貴重な明治時代の建造物の取り壊し情報を得ながら、京都から北海道に至る建造物15件を移築し、開館にこぎつけます。15の建造物は、名古屋鉄道所有の入鹿池を望む50haの丘陵地に移築され昭和40年(1965318日に開村記念式典を挙行、翌19日から一般公開が始まった。開館後10年を経た昭和50年(1975)には敷地面積は100ha、移築建造物葉の数は40件を超え、現在では移築建造物は68件となり、国内のみではなく、ブラジル・アメリカからも移築され、教会堂、学校、役所などの公共建築、商家、芝居小屋、文学者ゆかりの住宅などが含まれています。勿論、金沢からは、旧四高の物理学教室や金沢監獄のレンガ造りの正門、木造の中央看守所と監房も移築保存されています。

 

(今の広坂通り)

 

谷口氏の発案と言えば、現在、金沢の広坂通りの真ん中の辰巳用水と松や桜並木の両側の歩道と6車線に道路があり、石川四高記念館としいのき迎賓館側は、以前、それぞれ学校と県庁の構内でした。用水脇の兼六園寄りには広坂警察署、香林坊寄りには用水にせり出すように交番があり、道路は市役所側だけでした。それを両側道路に提案されたのは谷口吉郎氏で、自ら「建築に生きる」にお書きになっています。

 

参考文献:「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」平成101210日 石川近代文学館 発行ほか


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