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兼六園は私の造形教育云々!?谷口吉郎の「建築に生きる」

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【金沢・兼六園】

谷口吉郎氏の「建築に生きる」に、兼六園について「・・・秋は紅葉、冬は雪景色。ことに雪国では冬が近くなると、植木の枝に「雪釣り」の縄を結び、冬の庭は特別な姿となる。そんな姿も美しかった。だから私は四季の兼六園の姿をよく知っていた。それも1カ年だけの観察でなく、中学に通った各年見ているので、兼六園は私の造形教育に、蔵書の豊かな図書館のような役割をしていたことになる。そのためか、今でも私は庭園が好きである」と綴られています。註:「雪釣り」は「雪吊り」か? 

(兼六園)

 

兼六園は、私も子供の頃から歩いていける距離のところに住んでいます。今でこそ月に5日から7日程しか行きませんが、一時は朝、昼、夜と13行った事もあり、年間200回という年もありました。いつの頃か覚えていませんが、春・夏・秋・冬、季節毎の変化は当然ですが、兼六園へ通う内に視点を変えれば毎日が微妙に違い、日々新鮮に感じられ、さらに部分を遠くから眺めたりクローズアップしたり、また、全体を観察するようになると物の見方も広がり、その事を応用すると仕事に大いに役にたったことに思い当たります。

 

 

(兼六園の山崎山)

 

大先生には足元にも及びませんが、私も10年程前にそれらしい事を書いたことを思い出しスクラップを探して見ると、当時、現代アートに嵌っていたものですから以下のように書いています。まさに兼六園は私にとっても造形の図書館のようなものようです。かっては金沢美大も近くにあり、多分、金沢から谷口吉郎氏を始め建築、美術、工芸、意匠などの造形家が多く出るのは兼六園のお陰かもしれませんネ。

 

 

谷口吉郎氏は、中学4年生の夏休み叔父の神戸に行き、その時、腸チブスと診断され回復したのは年の暮れに近く、金沢に帰り養生していると学年末になり、そのため4年生に留まることになります。病気のため1年遅れることになりましたが、中学卒業後の進路について考えるようになり、窯元に生まれたので、東京上野の美術学校を志望し、陶芸の道を選ぶのが私の方向であり、それが当然でもあった。自分はそれに向いているように思えた。と「建築に生きる」にお書きになっています。

 

(四高)

 

しかし、地元の「四高」があるのでそこを受験したい気もした。当時旧制高校は中学5年の卒業生のほかに、4年修了者にも受験資格を認められていたので受験すると、幸い合格します。努力もしたのでしょうが、勉強はよく出来優秀だったのでしょう。窯元を継いでいる父にすまないような気がしたが、幸い父も母も心から喜んでくれた。と綴られています。

 

(4月に四高)

 

建築家志望は、「四高」2の時、大正12年(1923)の関東大震災が起り、その時「建築」というものの意義を意識したと述べています。3年のとき徴兵検査を受け、丙種合格。それでも元服を受けたようで、自分の将来に責任を感じるようになったと。記しています。翌年、志望者が多いと言われた東大の建築科を受験し合格。いよいよ私の将来に建築への道が開いたとお書きになっています。

 

(吉郎には5歳年下の弟吉二がいました。四高から東大経済学部に進むが、惜しくも病にて急死したという、兄に言わせてば私より頭がよく、父は家業の継続はこの次男に期待していたのではないかと言っています。そのためか、父は窯元もその他の事業も、あっさり閉じてしまった。だから金陽堂の廃絶には、長男である私に責任がある。そう思うと父に対しすまない気がする。と述べています)

(県立金沢二中)

 

谷口金陽堂と父吉次郎   

明治8年(1875)、初代吉蔵は士族でしたが廃刀を機会に金沢で九谷焼を扱う店を開業します。この家業は、二代吉次郎が継ぎ、次男与十郎が明治28年(1896)、神戸の元町に店を開き、九谷焼の輸出を受け持ち、明治41年(1908)、初代吉蔵が隠居して吉翁と称します。その家業は広く海外まで伸び、欧米各国、満州、韓国などを往来して販路の拡張に努めます。明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にも不況で小松の明治の名工松本佐平が経営していた松雪堂が明治36年(1903)に倒産。その時、初代吉蔵は、親しくしていた松本佐平と佐太郎の親子を支援し谷口金陽堂に招き入れます。こうして明治の名工と言われた松本佐平は、晩年、銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作し続け、また松本佐太郎は、谷口金陽堂で制作をする一方で、明治43年(1910)にイタリア万国博覧会の仕事を石川県より依頼されるなど、業界のために尽くします。二代吉次郎自身も、工業学校を卒業後、家業を継ぎ、明治年間に2回欧州の洋行し、2回目の日英博覧会には陶磁界の代表者の1人としてロンドンに赴き、また、各国で開催される博覧会に製品を出品しています。また、吉次郎の事業は陶磁器から工芸美術にまで発展したという。金沢商工会議所議員を16年間勤めたほか、加賀九谷陶磁器同業組合組合長6年間勤め、石川県工芸界の向上に貢献しましたが、その後、昭和2年、松本佐太郎に託して第一線から退きます。吉次郎は昭和22年夏、肺炎を患い永眠、享年73歳。

 

(谷口金陽堂は、犀川大橋から右側56軒目の片町6番地、今の金劇の犀川寄りのところにあり、表の店には各種の九谷焼の製品が陳列され、その奥には自宅があり、その奥に庭。その後ろに土蔵が三棟、庭の隅に茶室(横山家から移築した一種庵)。土蔵の裏には上絵に窯場、その奥には絵付けの職人達に職場となり、敷地は裏の河原町まで続いていたそうです。因みに寺町(現金沢建築館)は、吉郎が小学生の頃、住まいだけ移している。)

 

(谷口吉郎氏の設計の旧繊維会館内)

 

参考文献:「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」平成101210日 石川近代文学館 発行ほか


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