Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

藩政期の金沢片町③町年寄(家柄町人)宮竹屋伊右衛門家

$
0
0

【金沢・片町】

宮竹屋伊右衛門家は、拙ブログ“川南町の酒造業の宮竹屋喜左衛門”の項ですでに書きましたが、延宝2年(16742代伊右衛門の代に藩主前田氏の三味薬(紫雪・耆婆万病円・烏犀円)の調合許可を願い出、2代目病死後、3代目勝則に販売ならびに自家調薬を許されます。後に、前田家から越中古国府勝興寺に養子に出されていた時次郎が兄10代重教公の命で還俗し11代治脩公に立たれた時、縁故があり取立てられ、町年寄の家柄に加へられ、町年寄や銀座役を勤め、後に藩から亀田姓を名乗ることを許されています。歴代の中には、松尾芭蕉の弟子で、芭蕉の金沢滞在にも関わった4世宮竹屋勝豊(小春)”や頼山陽に師事し、後に春日山窯に青木木米を招いた7世宮竹屋伊右衛門勝善(亀田純蔵 号鶴山)”などが有名で、代々は金沢の町年寄を輩出しています。

 

(家柄町人とは、その大半が加賀藩草創期において、何らかの形で前田家に協力し種々の特権を与えられた門閥的特権商人です。制度として確立したのは意外と遅く文政2年(1819)で、金沢では巷間、町人大名とも称されました。宮竹屋の亀田姓は文政11年(1828)苗字が許されその時「亀田」を名乗りました。)

 

 

(芭蕉の辻の碑・この辺りに亀田家がありました。道路拡張で建物は壊される)

 

亀田勝豊(宮竹屋小春)(かめだかつとよ):宮竹屋勝豊は、寛文6年(1666)の生まれで4代目です。俳号を小春といいました。芭蕉に師事して、

芭蕉北陸巡行のときに句空、牧童、桃妖らと活躍しました。元文5年(1740)没しました。「3代目勝則(長男)・分家喜左衛門・俳号竹雀(次男)・4代目勝豊(三男)」

 

 

(亀田勝善の肖像画の模写)

 

亀田勝善(宮竹屋鶴山)(かめだかつよし):宮竹屋は薬種商で勝善は7代目にあたります。明和5年(1768)の生まれ、通称純蔵、号は鶴山といいます。詩を好み、頼 山陽に師事しました。水墨画も嗜みました。青木木米を招いて春日山で陶窯を起こしたりしました。天保5年(183466歳で没しました。

 

(片町北国銀行・この辺りが亀田家跡)

 

拙ブログ

犀川大橋からスクランブ交差点まで①昔は川南町と呼んだ・・・。

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12529898890.html

 

紙本著色金沢城下図(犀川口町図)六曲一双一隻 の部分

(縦151.5センチ  360.0センチ屏風 )

福島秀川筆(江戸末期)、石川県立歴史博物館所蔵  金沢市出羽町3-1・県指定文化財  昭和61322日指定・著作に「秀川」の落款があるところから福島秀川であるものと思われます。秀川は本名を白木屋清太郎といい、絵を狩野盈信黒川に学び、文化元年(1804)金沢に生まれ、明治13年(1880)に76歳で亡くなった。

(宮竹屋伊右衛門家の前口は十四間五尺・天保年間に描かれた福島秀川筆「金沢図屏風」の制作願主が宮竹屋亀田本家9世伊右衛門純蔵だと云われています。)

 

明治期の12世伊右衛門は、加賀藩前田家の家臣で7800石を拝領した青山将監の庶子清次で娘貞の入り婿になります。清次は、後には県政でも活躍し県会議長も務めますが、明治32年(1899)に没します。享年46歳。その後、亀田薬輔は明治39年(1906)、12世伊右衛門と交友関係のあった初代辰村米吉氏が営業を引き継がれました。

 

(辰村組が請負ったレンガ造りの四高)

 

初代辰村米吉氏:文久元年(1861)加賀藩士辰村栄国の二男として生まれ、石工から明治18年(1885)に土木建築請負業を始め、舞鶴軍港や四高の建築工事に成功します。その後、明治31年(1898)には竪町入口で3階建ての勧工場「正札堂」の経営や明治34年(1910)には市政に、さらには県政へ、大正4年(1915)県会議長も務めました。大正14年(1925)金沢商業会議所の会頭に就任しています。その間、明治39年(1906)亀田薬輔の営業を開始しました。昭和3年(1928)没しました。享年68歳。

 

2代目辰村米吉氏は、明治31年(1898)生まれ。昭和9年(1934)に金沢で発行された「家庭の鑑」には、土木建築請負業の辰村組の他に亀田薬輔、蛤坂の料亭望月(後に寺町移転、戦時中疎開した作家の曽野綾子氏が住む)の経営があげられています。

 

(つば甚)

 

余談ですが、2代目辰村米吉氏は、昭和23年(194811月、茶道宗和流の13代家元(辰村宗興)を受け継ぎ、吟風庵と号し、亀田伊右衛門家の芭蕉所縁の茶室「是庵」に住みます。昭和29年(19541018日のお亡くなりになり、昭和32年(1957)には敷地の一部が道路拡張になり、その茶室「是庵」は寺町料亭つば甚に移築されています。

 

どんどん、脱線してしまいました。・・・

お陰で、明治期の立志伝中の人物が見えてきました。金沢は、やっぱ・・・歴史の町です!

 

(おわり)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」日置謙著  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

「芭蕉金沢における十日間」密田靖夫著 能登印刷(株) 兼六吟舎 平成12年発行

「家庭の鏡」昭和6年発行

「金沢町人の世界」田中喜男著 発行所国書刊行者 昭和637月発行


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles