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藩政期の木倉町①炭薪屋俵屋と御荷川伝説?

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【木倉町】

元禄9年(1696)の金澤町肝煎裁許附に、木倉町が本町に載っているとか、その町地は家数33の町で、本町27町に加へられたとあります。この町地に昔旧藩の材木蔵があり、町名を木倉町と呼び、町の西方半ば出大工町と称し、大工が藩より邸地に賜っていました。寛文3年(1663)には町中にあった地子3地子銀免除し本町並みに組み込まれ、文化8年(1811)には、家数38軒(内武家3家)町人の職業は小間物商5、古手古道具商4、・秕屋・湯風呂屋2・大工2・線香商・鞘師・上絵書・白銀細工・三味線張替・袴屋・塗師と専門職が多く、他に京都仲使・藩医、出大工町の続には、大工肝煎2人の拝領地がありました。肝煎は、川南町、片町と同じ幸蔵が、組合頭は平松屋徳兵衛、明治4年(1871)に出大工町と合併し家数79となったと平凡社の「石川県の地名」や「金澤町名帳」に書かれています。

 

(木倉町)

 

才川小橋の下木町(木倉町の旧町名か?)

旧家に所蔵する利光卿(利常公)印書に、才川小橋の下木町、地子銀の事が載っています。共の印書写しは下記の通りですが、下木町は木倉町の古い呼称とする説があります。

 

 

元和9年(1623)より才川小橋の下木町の地子銀は1913分八8厘のほか8八匁61厘歩入

右うけ取所如レ件。

元和9年(16231127日   (利印)

                          加兵衛

                          九兵衛

 

「金沢古蹟志」によると、犀川小橋の下の木町は、今、云う木倉町で、元和2年(1616)霜月(陰暦11月)5日三ヶ国宿に伝馬役の定書に、金沢の内卯辰之木町(卯辰四丁木町)・宮腰口之木町(安江木町)・森本之末金屋町五間に一間は御役に事とあり、この頃犀川口の木町は今の木倉町で、三町とも昔は材木問屋がいて、材木商人ども居住し木町とは呼びたるべし。とあります。

(文化8年の出大工町)

 

出大工町

元禄6年(1693)、出大工町末火除近所等が見え、同9年(1696)肝煎裁許附に、出大工町とあり、木倉町と同じ町で、そのかみ大工共の邸地に賜り出大工町と呼んだとあり、明治44月戸籍編成の時、出大工町の町名を廃し木倉町へ属したとあります。

 

(右の樹木のところに上宮寺がありました)

 

出大工町の大工来歴によると、貞享2年(1685)の金澤組大工肝煎六助由緒書に、天正12年(1584)御帳面に大工100人余り御判紙をもって屋敷拝領を仰せ付けられ、棟梁に100100坪)、仕手大工には一人50歩(50坪)ずつ、今町・中町・修理谷坂近辺の内大縄にて下され、その所を大工町と呼んだという。寛永8年(16314月の金澤大火の時類焼し、同年拝領屋敷所替を仰せ付けられ、犀川大工町・出大工町・浅野川観音町にて代り地を下されたとあり。一説には、そのかみ大工共の居邸を、犀川大工町の地浅野川観音大工町との両所を賜わり、大工共の邸地を木倉町にて賜わり、それにより出大工町と称したという。

 

 

木倉町上宮寺

真宗の東方の道場で、三箇屋版の六用集に、上宮寺出大工町。と書かれています。明細記に上宮寺開基は唯性(新田義貞の3男の義泰)と云う。本願寺3世覚如法主より信仰二心なきを感賞して、祖師眞蹟の十字名号を賜わり延文31358)石川郡押野村に一宇建立、七世慶了代の天正年中、織田信長が石山本願寺を攻められたおり戦功があり、本願寺十二世教如法主がその誠忠を感賞し、寿像を賜わり。天文12年(1584)正月押野村より金澤へ移転し、2代藩主前田利長公より、木倉町の地を寄附され、十二世慶了の時本願寺東西に別れ、この時父子流浪し佐渡に移るが、慶長8年(1603)利長公に召しだされ金澤へ来て、出大工町に寺地を拝領。隣の小路は、元禄6年(1693)の士帳に、出大工町の御坊の小路。と云われていたそうます。尚、昭和57年(1982)に創建の地押野に戻り再建されました。

 

(上宮寺跡の木倉町広場)

 

俵屋宗達「出大工町の上宮寺前の炭薪屋」伝説?

宗達は、元は炭薪屋で出大工町に住んでいたというものや、京から金沢の出大工町に移り住み京では行方不明扱いだったなど・・・。真偽の程は定かではありませんが、宗達が寛永19年(1642)ごろ法橋となり、同年加賀藩3代藩主前田利常公の命で、利常公の四女・富姫が八条宮智忠親王に嫁ぎ八条殿内に御内儀御殿を造営した際、その化粧之間や客之間の襖絵を描いたのが縁で、寛永20年(1643)から正保初め頃に金沢に下り、前田家の御用絵師になったと伝えられています。

 

 

 

弟とも弟子とも云われている俵屋宗雪は、宗達存命中は、工房を代表する画工の一人で、宗達没後は、金沢の工房を継ぎ前田家御用達となり、工房印「伊年」を継承し工房作品に用たため、宗達と混同される場合が多く、宗雪(喜多川相説)の工房が出大工町辺りにあったと云われているので、炭薪屋伝説が生まれたのかも・・・。

 

拙ブログ

金沢の俵屋宗達伝説

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11714480833.html

 

(木倉町の旧家)

 

鬼川(大野庄用水)と御荷川橋

“鬼川”は別名お荷物の川と書いて、「御荷川」と呼びますが、その用水に架かる橋を今も「御荷川橋」と呼びます。著者な金沢の郷土史家日置謙氏の「加能郷土辞彙」には、“金沢城普請の時、宮腰か材木等を、この川に引入れたのでお荷物の「御荷川」の名も生じたというが、運搬の用に立てる程、水量でもないので、この説の当否を知らぬ。”と書かれています。また、明治の郷土史家森田平次著の「金沢古蹟志」には、「御荷川」は金沢城普請の時分、宮腰より荷等をこの川筋で引上たり、お荷物の「御荷川」といい、“俗に鬼川という”とあり、大橋下流の大野堰から御荷川橋、木倉町に引き上げたと言う説もあります。さらに、昭和のはじめに近くの寺院養智院が発行した本に“鬼川”が明治維新後「御荷川」と改称されたと書かれたものあります。となると、お荷物の“御荷川”が昔から無かったようにも思えます。

 

(こうなると、誰も見て来た人は居ないので、どちらも否定も肯定もできませんし、コンガラカッテしまいます。まさに伝説とか伝承です。こんな話は、たぶん歴史の先生は嫌いでしょうが、私はこんな話が大好きで、観光のガイドをする時は、こういう説もあり、また、このような説もありますなどと言って、笑いを誘い、お客様とコミュニケーションをとるきっ掛けにしています。)

 

実際はどうなのか?となると、木を集積したという木倉町という地名も有り、下流には「木曳川」もあり、藩政時代は、下流の木揚げ場安江木町などが有りますので、古くから木を運んだ川で有ったのではないかという推測も成り立つように思いますが、しかし、鬼川を引き上げたのではなく、材木を宮腰から犀川の本流へ引き上げ、大橋下流の大野堰から御荷川橋、木倉町に引き上げたと言う説に軍配を上げたくなります。

 

拙ブログ

福は内、鬼や内、冨永家

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11454194825.html

養智院と鬼川

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11456182597.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」日置謙著  金沢文化協会出版 昭和17年発行 ほか「金澤町名帳」 平凡社の「石川県の地名」


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