【木倉町】
昭和37年(1962)5月に「住居表示に関する法律」が施行され、金沢市は住居表示整備実験都市の指定を昭和37年(1962)8月に自治省から受け、住居表示の現代化のモデル都市とされ、いち早く町名の整理が行われました。木倉町も昭和40年(1965)9月1日に地域の13の町名が統合され「片町2丁目」になり、藩政時代からの歴史ある町名”木倉町“は消してしまいます。
(現在の木倉町入り口)
(昭和40年(1965)片町2丁目になった旧13町:上伝馬町、北長門町、木倉町、大藪小路、古寺町、裏古寺町の全部及び犀川下川除町、南長門町、十三間町、片町、横伝馬町、長町河岸、長町一番丁の各一部で、住居変更前の昭和39年度刊行社「住宅詳細地図」によると、木倉町には74軒の店舗や住宅があり、その内飲食店は11軒、民家は16軒、理美容店4軒、麻雀・撞珠店が2軒、その外41軒は物販店でした。)
(左木倉町広場(上宮寺跡))
町名復活:平成の市町村合併で多くの地名が消えていくなか、歴史の町を標榜する金沢市では、過去の反省から町名は文化遺産だとして、全国に先駆け旧町名を復活させるという事業を平成11年(1999)10月から行い、最初に主計町の町名復活に取り組み、4番目の取り組みとして、地元の強い要望から平成15年(2003)38年ぶりに「木倉町」の町名が復活しました。
(昭和39年以前かある陶器屋さんとレンガ建物は昔純喫茶の寿苑)
(木倉町は、昭和40年(1965)の町名変更以後も、道筋を木倉町通りと称し、また、商店街名として残っていて、「木倉町」の旧町名復活は比較的スムーズに行なわれたものと思われます。全国でも初めての商店街の旧町名の復活となりました。)
(平成11年(1999)、山出保氏が市長時代、市内にある「旧町名」を復活する運動が始まり、現在17の旧町名が復活していますが、当時の山出保市長は旧町名の復活は「懐かしさよりもコミュニティーの復活」とおっしゃっています。金沢の文化の高さを示す試みで、最近では、今年(令和元年)11月に金石新町・金石今町・金石海禅寺町の3町名が、来年(令和2年)秋、新たに金石下寺町・金石上浜町・金石浜町・金石松前町・金石御船町が住民合意にこぎ付け、5町名がよみがえる見通しがたったと冷和元年10月17日に新聞発表がありました。金沢に於ける町名復活の実績は、主計町・平成11年、下石引町・平成12年、飛梅町・平成12年、木倉町・平成15年、柿木畠・平成15年、六枚町・平成16年、並木町・平成17年、袋町・平成19年、南町・平成20年、下新町・平成21年、上堤町・平成21年・金石通町・金石下本町・金石味噌屋町・平成30年、観音町1丁目・観音町2丁目・観音町3丁目・令和元年に17の町名が復活しています。)
(木倉町の案内板)
現在の木倉町は、居酒屋・大衆割烹・天ぷら・スペイン料理・欧風料理・韓国料理・中華料理・焼き鳥そしてバーなど、“やきとり横丁”の約10店を含めて飲食店は約70軒。昭和の商店街とは随分、様変わりですが、平成、令和は「まちなかの飲食街」といったイメージの町で、大勢の市民や観光客が、お昼や夕暮れ時に気軽に立ち寄って食事をするなど、安心して楽しいひとときを過ごせる町です。また、毎年7 月末から8月上旬に開催される「木倉町ふうりんまつり」では、木倉町一帯に、およそ1500個もの風鈴をつり下げて涼しげな音を響かせ、木倉町広場には、種々の飲食店が出店し、縁日のような雰囲気で賑わっています。
(やきとり横丁)
やきとり横丁(約10軒):昭和40年代の始めに、当時の大和デパート前のいとはん裏にあった屋台村の立ち退きで、何名かで共同購入した大きな家を戸割にした7・8人も座ればいっぱいになるお店で、常連客を相手に、大屋根の下で、なんとも懐かしい店舗が軒を連ねていますが、そのルーツは昭和30年代の町中にあって屋台のやきとり屋や餃子屋が香林坊の大神宮が移転し、その空き地になった処に集められたものと聞いています。
(木倉町裏の広い道の先に中央味食街や新天地飲食街
やきとり横丁裏から2・3分のところに、昭和ロマンの風情あふれる屋台街「金沢中央味食街」や片町の「新天地飲食街」とレトロな横丁が軒がなります。どのお店も店内は狭くて座席は数席。初めての方も1人でも常連さんも、老若男女、カウンターの端から端で自然と会話がはずみ、どのお店も素朴な手料理でお手軽なお値段です。
大神宮:明治21年(1888)8月に設置された神宮教金沢本部に始まる。明治23年(1890)6月、神殿を建立して、皇大神宮分霊を迎える。当時は香林坊にあり(現在の香林坊東急)、門前は金沢の繁華街の中心となり、境内には劇場や映画館が立ち並んだ。通称「香林坊大神宮」と呼ばれた。昭和34年(1959)、香林坊から移転。)
(シャッターの店が草履店)
P.S
中学の頃、初めて“夜遊び”をしたのが木倉町でした!!というとよっぽど不良の様に聞こえますが、当時の木倉町は、今、調べて見ると居酒屋など飲み屋は少なく、お好み焼きや食堂などの飲食店は約11店舗、他は個人の住宅と物販店が約41店舗もあり、繁盛店も多く、裕福な家の子の同級生もいました。当時、我が母校の紫錦台中学は農村地帯の崎浦小学校と月給取りが多い住宅地の石引町小学校、そして、当時も中心商店街のある長町小学校が通学圏で、特に木倉町には元気な同世代の子供も多く、同級生には、よん坊・とし坊・とう坊と名前の下に“坊”の付く同級生がいて、その中に、草履屋の長男なのでぞうりやの坊やから“ぞん坊”と呼ばれる人気者がいました。彼が校下を越えて数人の同級生を誘い、夜、彼の家に集まることになり、それが、私にとって1人で初めての夜の外出でした。家には、友達宅で勉強へ行くと云い、見え透いた嘘を付き、教科書を風呂敷に包み出掛けると、同じ嘘を付き出て来た同級生が居たりして、今でも懐かしく思い出されます。お茶に駄菓子でワァーッと騒ぎ、駄弁っただけでしたが、それが心の隅っこに残っているのか、木倉町を通る度に私の始めての夜遊び?が思い出されます。年に数回、買い物もしないのに店の前を通ると時々に顔を出していましたが、今年、店仕舞いされ、最近は、たま~に通ると降りているシャッターを横目で眺めながら、当時の情景が思い出され懐かしくもあり心寂しさを感じています。
参考文献:「長町校下の変遷」昭和52年4月長町公民館発行 「長町公民館50年記念誌」平成14年4月長町公民館発行 「昭和39年度金沢市詳細図」など