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片町2丁目の旧町名伝馬町(上・下・横・裏)

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【片町2丁目】

昭和40年(1965)金沢市の町名統合で、片町2丁目や中央通町等に町名変更になった上伝馬町(片町2丁目)下伝馬町(中央通町)横伝馬町(片町2丁目、長町2丁目、中央通町)裏伝馬町は、藩政期からある地名で、藩用の人や荷物を運ぶために66匹の伝馬が置かれたことからこの名が付きました。藩初は橋場町付近に置かれ、以後犀川に移されています。上・下・横・裏伝馬町は地子町の一つでした。

 

伝馬:幕府、諸大名、公家などの特権者の公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬で、古くは駅制にも伝馬の制がありましたがその後廃絶します。戦国時代に諸大名は軍事的必要から領国に宿駅を設置し伝馬を常置します。江戸時代になると徳川家康が慶長6年(1601)東海道,中山道に多くの宿駅を指定し、36頭ずつの伝馬を常備させたのが初めで、寛永 15年 (1638)に幕府は東海道 100頭,中山道 50頭,日光,奥州,甲州各道中 25頭と定めた。)

 

(伝馬町碑・大野庄用水脇)

 

旧伝馬町

改作所旧記にある寛文10年(1677)の届書に、伝馬町うしろの川除に、また、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許付に、伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・裏伝馬町。と記載され、4町に分れていて、今は上伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・裏伝馬町の4とするとあり、この町は旧伝で云うには、旧藩の藩初以来伝馬で、金澤伝馬役の馬を継ぎ置く厩をこの町内に建てたので、伝馬町と呼んだと言い伝えられています。享保12年(1727)の「はなし随筆」に、伝馬町馬貸何某が家に居る六兵衛と云ふ馬子の伝話があり、天保・弘化の頃までも、この町の入口に馬借の家があり、貸馬を継ぎ置板と書かれています。これは国初以来伝馬の余波か?おもうに、町名を呼びはじめた頃、この町地は伝馬・馬借の家共を集め置かれたゆえに、自然と伝馬町と呼んだのでしょうか?

参考:「はなし随筆」加賀藩の下級武士森田小兵衛盛昌が、親戚縁者や同僚・友人知人等から聞いた日常の興味をそそられる色々の話、珍しい話、不思議な話等々をまとめたもの。

 

 

(淨誓寺)

 

横伝馬町の淨誓寺

東方真宗のお寺、元能美郡小松にあったので俗に小松御坊という。三筒屋版の六用集に、淨誓寺伝馬町とあり。明細帳に、当寺は能美郡小松町真宗東派淨誓寺の分寺で、小松淨誓寺第五世住職正願、檀家及び信仰の門徒の情願に依り、慶長9年(16043月金澤伝馬町の今の地に一寺を創立し、淨誓寺と号す。とあります。この時より小松・金澤両所に淨誓寺が存在するようになりました。

 

(昭和29年の周辺地図)

 

旧横伝馬町・旧裏伝馬町

金澤古蹟志によると、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、横伝馬町・後伝馬町。と有ります。護国公年譜に、享保18年(1733426日、犀川川除町より出火、後伝馬町・横伝馬町・下伝馬町等焼失。とあり。後伝馬町は今裏伝馬町とあります。

 

(伝馬町入口の大野庄用水に架かる五枚橋?)

 

伝馬橋?

金澤古蹟志に金澤橋梁記の“伝馬橋出大工町上り口也。”とあるのは誤りで、伝馬橋は伝馬町入口の鬼川(大野庄用水)へ架けたる橋だというが、伝馬町入口の鬼川(大野庄用水)の橋は、今、旧伝馬町の入口にある橋だろうか?欄干が一つで橋の名前がありませんが昭和年月架橋の文字がありだけです。確か昔の文献には五枚橋と書かれています?

 

(現在に片町伝馬商店街)

(片町伝馬の看板)

 

旧下伝馬町の土室淨照寺

東派の真宗道場で、俗に土室御坊と呼ぶ。もと能美郡土室村にあった寺で、貞享2年(1685)の由来書に、開祖慶正が長禄2年(1458)に加州能美郡土室村に建立。五代正慶の時、金澤伝馬町へ移転造立したとあります。加越闘諍記・北陸七国志等に、享禄4年(1531)朝倉宗滴、加賀国一揆征伐として出勢の時、石川郡番問・土室・藤塚所々を放火し、その時玄任組の者ども同心の内通衆一勢、傍へ退いたとあり、土室浮照寺の開祖慶正なども、玄任組の一人にて、そのかみ土室坊慶正と呼び、本願寺方一揆魁首であったと思われます。蜷川親元日記に、文明8年(14761227日上村秀慶入道、嵯峨三秀院領加州上土室事、さる長禄2年(1458永代232貫文を以て買得た処、槻橋兵庫がわけ無く押領云々。とあり、上村秀慶入道は、上土室村の秀慶入道で土室坊慶正の父といわれ、長禄2年(1458)に土室村に道場を建立したとすれは、同時代にて、若しくは同人と云われています。

 

(現在に土室浄照寺)

 

土室小路

淨照寺の脇の犀川に抜ける旧茶木町の小路をいう、淨照寺を土室御坊とも土室淨照寺とも云うことから小路と呼びました。淨照寺を土室御坊と云うのは、昔からで、町会所留記にも載っています。天和3年(168311月伝馬町町役人の家の張紙に、つちもろの御坊のあたり後家・むすめ云々。と見え、元禄6年(1693)の侍帳に、法船寺町土室御坊近所とあり。此の地は法船寺町の町地の近くであり、法船寺町土室御坊と載せたのでしょう。

 

(土室小路・犀川より)

 

余談:学校に届けられた犀星のラブレーター

明治37年(1904)県立第一女学校に恋文が届けられます。宛名は3年生の淨照寺の娘土室きわ宛に立て続けに2通が送られてきました。送ったのは1歳年下の室生照道(犀星)少年でした。当時、良妻賢母を養成する県立一女学校は特に男女交際に厳しく、異性に関われば事は、即刻退学処分さえ受けねばならないところでしたが、差出人(照道少年)が土室きわとは何の関係もない事が判明し、担任の先生より戒告を受け手紙は没収され、その場は収まりますが、事件はすぐ級友に知れ渡り、親しい友人からも「それ見まっし、平生きかんさかい、男の子から手紙なんかが届くがや。気を付けんかいね。学校や組の恥になるがやゾ・・・」と云われたらしい・・・。

 

ところがまたもや、今度は黒百合の絵に短歌一首を書き添えたハガキが届き、散々戒告を受けた彼女はチラッとみただけで、担当の先生はゴミ箱に捨てたという、事ここに至ってはと、きわはこの事件を家に話しと、義兄は照道少年学校に送らず家に送るようと手紙で書き送ると納得したのかそのままラブレーターは来なくなったとう・・・。

 

(土室小路)

 

しかし、この話には後日談があり、明治39年(1906)の1011月ごろに香林坊の福助座で「阿波の鳴門」という芝居がかかり、きわは姉と連れ立って見に出掛けると、照道少年(犀星)に出会ってしまい、隣の枡(座席)に座ってしまい、ここは照道少年にとって千載一遇のチャンス、“学科は何が好きだ”の“短歌が好きなら詠んでみせて”やとか“自分の好み”を話すなど、終始、手を握り離さなかったという。そしてそのうち“犀川辺り散歩に行こう”とか“手紙が欲しい”と望まれたという。それにはきわは、きっぱり断ったということだそうですが、きわの本心は、彼を嫌っていたとは思えなかったかもネ・・・。

参考:山本久「なお生ける犀星明治三十九年の恋人」より(「国文学 解釈と鑑賞」第432号 昭532

 

(現在の旧伝馬町周辺の地図)

 

現在の伝馬町界隈は、旧町名が冠の町内会が平成17年(20054月に「片町伝馬商店街」を発足し、“巡れば城下の面影、日が暮れれば美味しい街”として昔ながらの名店と新しいお店が競い合い金澤らしさを引き継いでいます。

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 ほか


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