【片町2丁目・長町2丁目・中央通町】
金沢では藩政期、武家地は藩の行政組織が管理していたので正式な町名がなく武家地は通称で、屋敷は○○殿町や下屋敷は○○家中町(かっちゅうまち)と呼ばれていたそうです。明治維新以後、例えば本多家の屋敷跡地や横山家の屋敷跡地に、町名が付けられ本多町や横山町と呼ばれ以下多くの武家地は同様です。町人は金沢町奉行支配で町が単位で肝煎や組合頭が管理するため正式な町名がありました。明治維新からは武家地を除き、ほぼ藩政期からの町名が残り、武家地には新しい町名が付けられます。ところが長門家の屋敷は、藩政初期、上屋敷の有った長門町から、下屋敷の有った小立野石引町に移り、その跡は、お寺と長門町と云う名の地子町になります。
(大野庄用水に架かる長門橋)
旧長門町(昭和40年9月より片町2丁目、中央通町)
元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、後(裏)伝馬町と長門町が並んで載っています。年譜に、享保18年(1733)4月26日犀川川除町より出火、長門町等類焼すとあり。貞享2年(1685)の養智院由来書に、正保3年(1646)犀川長門上地にて寺地として拝領したと載っています。長門上地は、長門町のことで、正保の頃には長門上地町と呼ばれていたようです。後に略称長門町とは称したもので、旧伝に長門町は山崎長門の旧邸だったもの記されています。南・北長門町の両町名は、文政6年(1823)長門上地町が町立てされ、南長門町と北長門町になりました。
(山崎長門旧邸は、寛文7年(1667)の金沢地図にはない。)
拙ブログ
養智院と鬼川
山崎長門旧邸
旧伝では、山崎長門は元この長門町の地にお屋敷があり、中屋敷は修理谷の高にあり、下屋敷は小立野石引町にありました。しかし長門町のお屋敷が召し上げられ、中屋敷もご用地となり、小立野石引町の下屋敷内へお屋敷を移し、明治まで小立野石引町(明治以後町名を山崎町)に居住します。遡ると三壺聞書に、寛永8年(1631)4月金沢火災の時、惣構の外の長九郎左衛門、山崎長門家類焼したとあります。
山崎長門家
山崎氏の出自については、「藤原氏の末裔」説や、山崎家伝承による「村上源氏赤松氏流の末裔」説など諸説がありますが、金沢古蹟志によると、本姓赤松氏。村上源氏で播磨にあり、後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨国守護職に補任され、後に有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚すると、播磨国を没収され、新政から離反した足利尊氏に味方し延元元年(建武3年)(1336)の湊川の戦いで尊氏を勝利に導く遠因を作ったと云う名門で、後に、一族の山崎長徳が朝倉義景に仕え、朝倉氏滅亡後は明智光秀、佐久間安治(柴田勝家の家臣)に仕え、勝家が死去すると前田利家公に、次いで天正11年(1583)前田利長公に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、関が原の戦後に利長公から1万4,000石の所領を与えられます。慶長19年(1614)から大坂の冬、夏両陣にも参戦し、末森の合戦をはじめ数々の合戦に功をなし元和6年(1620)に69歳で没しています。
息子の長郷の妻は、前田利家息女・豪姫の娘で、前田利長公養女となった女性理松院(貞姫)であったという。
簒奪(さんだつ):本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。 あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。
(寛文7年に金沢図・石川県立図書館蔵)
旧塩川町(昭和40年9月より片町2丁目、長町2丁目、中央通町)
この町内に藩初、藩士塩川氏が数代居住したので町名が付けられたと云われています。塩川氏の邸は、寛文7年の金澤図にもあり。元禄6年(1693)の士帳に、塩川安左衛門出大工町末火除右角とあり。その頃から火除地の左右両町を塩川町と呼んでいます。延宝の頃は両町の中央火除地にて、両側のみ邸地で、その後、火除地も諸士の邸地に賜はったと書かれています。そして両町ともに昭和40年(1965)9月まで塩川町と呼ばれていました。明治から町の半分が長町小学校の敷地に、昭和には中央通りの町の真ん中を通り、平成になると町中の児童減り小学校の統合からバスの駐車場と学校の建物を利用して金沢市中央公民館長町館になりました。
(昭和29年の長町界隈)
塩川安左衛門伝
家譜に、元祖安左衛門は、慶長19年(1614)微妙公(3代利常公)に召抱えられ、家禄700石を賜はり、使番を命ぜられ2代安左衛門萬治3年(1660)に家督を継ぎ、小松町奉行を勤めました。2代目には2子がいて、長男平八は父遺領の内500石賜はり、安左衛門と改称し、次男伝兵衛へ200石配分し賜はり、両家がなるとあります。吾が藩士に成ったのは、慶長19年(1614)前だろうと思う、慶長17・18年(1612・1623)の士帳に、馬廻組700石塩川孫助と載っています。元和元・2年(1615・1616)の士帳に、使衆700石塩川孫助とあり、寛永4年(1627)の士帳にも、同様に載っていて、されば利常公に召抱えられたのは、慶長17・18年(1612・1623)にて、初は孫助と称したが、寛永4年(1627)以後安左衛門と改称。寛永19年(1642)の小松士帳に、700石塩川安左衛門大領とあり、されば利常公が小松へ養老した時、召連れられ、小松の近辺大領野にて邸地を賜はり、萬治元年(1658)利常公の薨去後、小松附の緒士金沢へ立戻った時、居邸を塩川町の地にて賜はり、それより子孫がこの地に居住しました。明治の廃藩置県の時、退去したのでしょう。小松附士帳に、170石塩川忠右衛門という記述もあり。元祖安左衛門の長男2代安左衛門と金澤古蹟志に書かれています。700石の中級藩士の苗字が町名になっているのは、金沢でも数少ないことですが、昭和40年(1965)9月、その町名変更で消えてしましました。
(旧北長門町・南長門町界隈)
まぼろしの相撲町
あるいは御相撲町とも、年譜に、享保18年(1733)4月26日犀川川除町より出火、相撲町等焼失。とあり。旧伝によると、中納言利常公の時、お相撲の力士を多く召抱えられ、居邸をこの地にて賜ったとあり。ゆえに御相撲町と呼んだという。亀尾記にも御相撲町とあり御抱相撲取りの居邸といったと云うが、場所が特定できません?
前回伝馬町の抜け落ちた少林寺:曹洞宗。貞享2年(1685)の由来書に、開基は正保3年(1646)に堀川久昌寺の先住存清和尚とあり、金森長右衛門の檀那寺で、僧禄衆、寺社奉行・地子奉行中へ申建し、犀川伝馬町にて地子地申請寺として建立したとあり。三筒屋版の六用集にも梅葉山少林寺伝馬町とあり、現在は廃寺になり、仏具等は宝町の宝円寺に移されているそうです。
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年2月発行 ほか