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謡が空から降る町②昔

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【金沢市内】
金沢のことを表す言い伝えに“空から謡が降ってくる”というのがあります。庶民までも能樂に親しんでいた様子を表したもので、前回もいいましたが、藩政期、加賀藩の殿様が武家だけではなく庶民にも奨励したことによるものだと思われます。


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(石川県立能楽堂の杜若像)

能樂は“難しいもの”“敷居が高いもの”と思われがちですが、金沢では、そのような歴史から、一般庶民にも親しまれ、大工や植木職人たちも謡を習い仕事の合間に口ずさんだのでしょう。しかし古希を過ぎた私には空から降るのを耳にした記憶はありませんので、多分、随分昔のことなのでしょう。いや~、私が無関心だったのかも・・・。


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(佐野の舞台模型①)

加賀・能登のお能は、中世、能登に諸橋や波寄などの能役者が居住したといわれています。藩政期になると両家とも前田家の庇護を受けます。前田家は初代から4代までは金春流がお家流でしたが、5代将軍徳川綱吉公の影響を受け5代藩主前田綱紀公が9代目宝生太夫と師弟関係となり能を学び、加賀藩では、以後宝生流は“加賀宝生”といわれ隆盛します。


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(金沢能楽美術館の着付けコーナー)

加賀藩から禄を受けていた諸橋喜太夫(喜多流)、波吉信重(金春流)の両能太夫を宝生太夫に弟子入りさせ宝生流に改めさせたといいます。しかし加賀藩が最初から召し抱えていた金春流竹田権兵衛は以後も御手役者の筆頭として、その子孫も300石で京都に居住し金沢、江戸の藩邸を往復したといいます。


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(金沢能楽美術館の試着用の面)

藩政期、加賀藩の大きなお能の年中行事として、二大神事能があります。今も続く大野湊神社の“寺中能“と明治2年(1869)まで続きた卯辰観音院の山王社に奉納する観音御能と称した神事能で、町の人々が集まって神前でお能を興行して祝ったといいます。


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(今の観音院)

卯辰観音院の神事能は、町奉行の支配のもとに諸費用の一切は城下の本町に住む町人の負担とし、本町に桟敷を与え、宝生流の諸橋、波吉両家や細工人が興行ごとに出演したといいます。演ずる役者は、一言一句の誤りや絶句でも進退伺いを申し出たという厳しいものであったが、脇方・囃子方まで藩の扶持を受け、観音院役者として尊敬されたそうです。


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(金沢能楽美術館から21世紀美術館の松)


また、金沢町民のお能としては、太鼓、笛、小鼓を囃子とし、能衣装の代わりに紋服・袴姿で舞う“舞囃子”が行われ、寺小屋でも“読み書きそろばん”のあと口移しで暗誦させたこともあり、先にもいいましたように、一般庶民にも謡が親しまれ嗜んだといわれています。


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(壮猶館跡・現知事公舎横)

余談ですが、幕末になると国事多難のため文久3年(1863)から明治元年(1869)までの6年間はお能が禁止になります。その間、お城の能御用がなくなり多くの能役者が壮猶館の火薬製造に従事し火薬製造中に爆発事故の遭い10数人の犠牲者を出したというアクシデントがあったといいます。


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(今の金沢城)

明治4年(1891)、お能を奨励し保護した前田家も13代藩主斉泰公、14代藩主慶寧公が金沢を去り、金沢のお能もさびれていきます。明治政府では高官が欧米外遊に際し、各国の芸術保護を見聞きしたことから、猿楽といわれたお能も“能楽”に言い換えられ復活するにつれ、金沢でも明治後期に佐野吉之助等によって再興されます。


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(佐野の舞台模型②)

佐野吉之助は履物販売業を営むかたわら、藩お抱えの御手役者諸橋権之進について加賀宝生の伝統を継承するとともに、私財を投げうって装束や面の収集、能舞台の建設に力を注ぎました。そして、明治34年(1901)、金沢能楽会を設立します。


(つづく)


参考文献:「金沢市史」通史編2 近世、藤島秀隆著、平成17年12月刊行・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行


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