【長町1・2・3丁目】
現在の長町1丁目~3丁目は、昭和40年9月の住居表示で、長町1番丁から8番丁、長町川岸・塩川町・宝船寺町・富本町・元車町の1部が合わされて生まれました。今、長町と云えば、金沢を代表する観光名所として土塀が続く町として知られていますが、金沢市内で、武家屋敷の名残を僅かに残す土塀の連なる町は長町界隈です。他に武家地だった本多町、味噌蔵町、彦三、長土塀等にもありますが、ぽつんと1軒とか2軒、またはバラバラに数軒。現在、土塀が連なる地域は、長町1丁目の「長町武家屋敷跡」と呼ばれるところだけです。
(大野庄用水沿の土塀と長町の石標)
現存する土塀も、戦後、お金が掛る土塀は敬遠され板塀やブロック塀に変わりましたが、戦後数年たって、金沢市が積極的に土塀を修繕に乗り出し、特に力に入れたのが旧長町2番丁界隈で、残存する土塀の修繕とともに、新たに土塀を築き上げた部分もあると読売新聞金沢総局が著わした「金沢百年町を辿る」に書かれています。
その本の中に、当時の金沢市観光課に観光開発室長の言として「土塀については「保存」ではなく「修繕」と言う考え方をもっている。かって武家屋敷があったという雰囲気をつくり出す。人工的なものでいいんです」と書かれています。実は土塀は手間とお金がかかり、成り行きに任せておくとコンクリートの塀に成りかねない。土塀は一冬越すと土が剥落したり、屋根が板葺きの傷みも激しくなるので、冬は土塀に弧を掛け、土が凍るのを防ぐのに、随分、手間やお金が掛ります。そのため土塀の修繕は、市が補助金を出し観光地域をバックアップしていると言う事だそうです・・・。
(弧も掛け)
長町1丁目:鞍月用水と大野庄用水の間、旧長町川岸・旧横伝馬町・旧長町1,2,3,4,5,7番丁の一部(大野庄用水の上)
(旧長町川岸・鞍月用水沿)
(旧1番丁・上)鞍月用水側より
(旧2番丁・上)鞍月用水側より
(旧3番丁・上)鞍月用水側より
(旧4番丁・上)鞍月用水側より
(旧5番丁・上)鞍月用水側より
(旧7番丁・上)鞍月用水側より
長町2丁目:大野庄用水と中央通り・旧元車町の交差点までの間、旧長町1,2,3,4,5番丁の一部(大野用水の下)旧塩川町・旧宝船寺町・旧富本町・旧元車町の1部
長町3丁目:大野庄用水と昭和大通りの間、旧長町川岸・旧長町6,7,8番丁の1部(大野庄用水の下)
(Googlemapより・ピンクが長町1丁目・赤い線内は長町2・3丁目)
「中央通り」は、旧富本町から旧塩川町、旧横伝馬町、片町、そして旧河原町、大工町から幸町、笠舞、三口へ繋がる三口新線で、昭和5年(1930)5月20日に事業決定し、最初は旧富本町から旧横伝馬町までが昭和11年(1936)2月14日、旧横伝馬町から片町通り昭和23年(1948)5月20日、片町から幸町へ通じる三口新線の計画決定が昭和32年(1957)5月10日、その間土地買収や家屋の移転保障などで遅れに遅れ全線開通したのは、事業決定してから約40年の昭和46年(1971)に全線開通しました。確か昭和45年(1970)頃に片町寄りの米屋、床屋、おでん屋、風呂屋等が残っていて何れも利用したことが思い出されます。
拙ブログ
金沢古地図めぐり(長町編)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11806526865.html
またまた、長町古地図めぐり
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11865308903.html
金沢老舗会館①―今
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11872296649.html
他多数
(安政の絵図)
“安政絵図”
長町1丁目は、鞍月用水と大野庄用水に間の町をいう、安政期には今中央小学校の村井家のお屋敷の7,000坪を筆頭に全て武家地で、上・中級の武家屋敷が立ち並び、数えてみると旧長町4,5,7番丁までには27軒、旧長町1,2,3番丁には30軒と現在の1丁目の範囲内で約58軒あり、現在の家々は当時とは比べようがありませんが、旧長町は、当時を思わせる大きな屋敷は何軒あるものの、殆どは分割され移住者の会社、商店や住宅地になりました。
安政の絵図によると、鞍月用水から旧長町2番丁に入口左角の村田半助邸(安政絵図には無い)は、馬廻役で大小将知行500石、その向かい角にあった藤田平兵衛(安政絵図には無い)定番頭知行3,000石その隣の福島喜内(安政絵図には無い)知行350石は断絶したのか、安政の絵図では湯原家、栂家になっています。現在新家邸長屋門ある桑島家は知行250石の表小将で代々納戸奉行、御膳奉行、細工奉行を勤めたという。
(旧長町2番丁・大野庄用水より入る)
現在新家邸の隣、安政の絵図には「跡地」とある大屋家は、藩政期からの門と屋敷が藩政期のもので当時は石置き屋根でしたが、明治になり瓦屋根のあずま建ちに修繕したものだそうです。大屋家の付いては下記に記しますが、この家は、元加藤又右衛門邸で、知行200石定番馬廻役で塩裁許という役柄だったといいます。
大屋愷あつ( 1839-1901):地図製作をした洋学者。天保10年(1839)加賀藩士石沢水満と長男として生まれ、16歳の時、京都や長崎に遊学。京都では、蘭学とともに絵師岸岱(虎に岸駒の子息)について絵を学び、長崎では、英語、蘭語、数学、天文学、大砲の製作法などを学んだという。安政5年(1858)に帰卿するがほどなく藩主より「大屋」の姓と長町2番丁の200坪の邸地が与えられた。慶応元年(1965)藩校壮猶館の翻訳方となり、翌年には砲台築造方となり、維新後には金沢県の教育係として学校教育の方針を作成するなど、初等教育に力をそそいだ。金沢でランプやこうもり傘を最初に使い、チョンマゲも最初に切った人としても知られ、石川県における皇国地誌編纂(明治13年 1880)の関わり、製作した地図として、「射号万国訳図」「射号日本地圖」があるほか、世界の名数について記した「万国名数記」「広益英倭辞典」など多くの著作がある。
(大野庄用水に架かる長町二の橋)
安政絵図には村田家、加藤家、津田家が残り、藤田家は知行600石の小将組の屋敷に変わるなど、昔も今も栄枯盛衰は世の常といいますが、明治になると藤田、福島、津田、角尾邸や多くの長町のお屋敷はリンゴ畠になり、昔語りとして、当時、主人は東京等で猟官運動に忙しく、リンゴ畠は、かっての家来が続けていたという話も聞こえてきます。
(つづく)
参考文献:「金沢百年町名を辿る」著者 読売新聞金沢総局 発行 能登印刷・出版部 1990年7月・文久年間の加賀藩組分侍帳ほか