【長町1丁目】
旧長町3番丁入口北側は石浦山王社の旧地
旧長町3番丁入口にある旧藩士浅加氏の邸およびその向かいの由比氏(延宝の絵図では板坂孫三郎、川勝五郎兵衛)の邸宅は、昔は、その区域の地は石浦山王の旧社だと伝えられています。浅加氏の邸内は石浦山王社の社跡で小高き岡の上に雑木林が茂り、その林の中にタモの木が神木で、もし差し障ることがあれば必ず祟りがあると云われていたそうです。天正8年(1580)3月柴田勝家等の加賀の賊徒返討として討入り閏3月9日尾山城が落ちた時、石浦の社殿及び本地観音堂も兵火に遭い、天正8年以後この地を去り慶長7年(1602)に再興、その後、長町の地は武家地になり、石浦の村地は兵火にあい再興の際に石浦町と町地に、旧長町3番丁入口の地は、旧藩士浅加氏の邸と道を経た向かいには由比氏の屋敷となりました。よって、石浦村も今菊川2丁目の旧町名石浦新町の地に再興されました。
(今の石浦神社)
由比勘兵衛邸跡
由比氏のご先祖由比勘兵衛光清は、3代藩主前田利常公の家臣で後藤又兵衛・塙団右衛門と並び称せられた豪傑で槍の名人でした。「金沢城の見えるところに葬ってほしい」との遺言で、寛永3年(1626)、卯辰山に墓を建てたと云われています。「由比勘兵衛之塚」と記した石碑と由緒を書いた金沢市教育委員会の立札が立っていました。現在のものは移転再建したものだそうです。(文久の士帳には、小将組 家禄450石)
(この辺りに浅加家、由比家があり、その前は石浦山王社)
浅加九之丞邸跡
延宝の金沢図に、浅加左平太とあり、旧長町3番丁の北の入り口にあり、元禄6年(1693)の士帳に、淺加左平太長町山本千丞小路とあるとあり、左平太は九之丞の父で、享保9年(1724)や士帳に浅加九之丞長町とあり、これより歴代この邸に居住し、金沢古蹟志のは、これより歴代この地にあり、とありますが、文久の士帳には見当たりません。
(余談:旧長町3番丁は始めからこの辺りは石浦山王社の氏子でしたが、中頃より野町の神明宮に成ります。浅加氏と由比氏は後々まで石浦山王社を産土神として崇めたと伝えられています。)
縁切宮
この祠は、右衛門橋下の旧長町5番丁入口の川縁にあり、元惣構の土居下に俗に縁切りの宮という貴船明神があり、この本社は京都鞍馬口の貴船神社だと云われています。昔、加賀藩八家の村井氏の奥方が、主人の浮気のため、自分の持っている、櫛、簪、笄などを埋めて祈願したところ霊験あらたかに、主人の浮気がやんだと伝えられている祠です。昔は婚礼の列はこの前を避けて通る習わしがあり、また、男女の縁結びには夜の丑の刻(午前2時~4時)に人目を忍んで祈願すりと良いと云われていました。縁切り祈願は香林坊方面より、縁結びは「高岡町方面」からお参りすると効果が有るとも云われています。
(この辺りに有ったという妖物屋敷)
長町川岸の妖物屋敷
縁切の宮の向い、延宝の頃この辺りに長谷川頼母(1000石)の屋敷がありました。借財が重なり元禄4年(1691)に召し上げられ、文政年中まで約130年間空き地になっていました。ここはそれ以来妖物屋敷と呼ばれた地で、悪地と云い伝えられるところでしたが、文政年中藩士松本氏がこの地を望み拝領し、初めて家作をし、まだ落成しない内から留守居に下男を置いていたが毎夜妖怪出で、種々奇怪な事があり、下男がはなはだ恐怖し、松本氏はその事とを聞き臆病なりと、自身も止宿すると勇気に恐れてか何の異変が無く遂に家作落成し、家内が移り居住した。廃藩後家屋を壊し、町家数戸となりました。
(左、藤掛・青地・稲垣家跡、右、浅香・竹田家跡・現在聖霊病院・聖堂)
竹田市三郎邸跡
旧長町5番丁の竹田邸は、先祖市三郎忠種は3代利常公より小将に抜擢され、生涯側近として利常公に仕え、利常公が亡くなった際に殉死した人物です。延宝の金沢図には、前口29間4尺5寸・奥行東側30間2尺・西側30間とあります。始祖忠種は実は村井兵部家人大場采女と云う者の子で、横山山城守の家人竹田金右衛門と云う者の養子となり、容顔美麗であるところから利常公の稚児小将に召出され、追々加恩があり家禄3,530石に至り、邸地をここに賜り、子孫世々居住します。明治の廃藩置県の際、家屋を壊し地所を売却して去る。現在は聖霊病院と聖堂になっています。(文久の士帳には、人持組竹田掃部 家禄3500石)
(旧長町5番丁・左聖霊病院)
(聖堂は昭和6年に竣工。スイス人のマックス・ヒルデンの設計。中世ヨーロッパ建築ロマネスク様式の木造平屋。室内の黒漆塗りの円柱には金箔を使い、また、金沢の伝統的な色彩群青色など金沢の工芸を活かした内装は日本人の大工によって作られた事を窺わせます。平成8年4月、金沢市指定保存建造物に指定されました。)
浅香左京邸跡
延宝の金沢図や元禄6年(1693)の士帳に、浅香左京、長町竹田五郎左衛門の隣角とあり、これより歴世ここに居住し、廃藩の際退去。先祖の左馬助三卿は、元は勢州北畠具毅の医湯鵠嘉兵衛が子で、国司滅亡の時、嘉兵衛討死して、嘉兵衛が妻、左馬助を胎内に持ちながら、蒲生氏郷の家来水野三左衛門が方に来嫁して左馬助を生み、水野少次郎と名乗ります。容顔美麗で、氏郷子小姓に呼出され、奥州安積郡安積の城を預けられ、1万石を領し、安積左馬助と称し後浅香に改めた。氏郷家亡びて後流浪し、慶長の初め石田治部小輔に付き、浅香三左衛門と号す。石田滅亡の後、再び浪人と成り大坂陣の以前利常公召出され、家禄3000石を賜はり、浅香出雲と称し馬廻組組頭を勤めたという。(文久に士帳には、小将組 浅香主馬家禄1400石)
(右、現足軽資料館の旧7番丁青地家辺り・左、中央小学校)
学者青地斎賢と弟礼幹の邸跡
現在の足軽資料館の隣に有った青地家は、本性が本多氏で本多家の初代政重が、直江兼続の養子のなった時に生まれた男子の血筋だと伝えられています。青地氏の本国は近江で、佐々木氏の一族で、その祖駿河守茂綱は実は蒲生定秀の二男で、茂綱の男青地四郎左衛門光綱だと云われています。慶長4年初めて利長公に奉仕。二代四郎左衛門等定は、実は佐々木中務大輔承漢の四男が定政の養父で、定政は本多政重の曾孫といわれこれが青地の祖と云われています。定政の長男・次男にて、兄弟共に室鳩巣の高弟で、兄斎賢、弟は礼幹と言い。貞享2年(1628)12月綱紀公より分家を命ぜられ、世禄1000石の内800石を嫡子斎賢に賜わり青地氏の宗家とし、200石を次子礼幹に賜はり、庶家とし別家を建て元禄16年に新に邸地を賜はり別居します。兄弟共に学問に励み室鳩巣の高弟として知らています。(文久の士帳には、小将組青地半四郎 小将町 家禄400石)
(現足軽資料館)
藤掛家屋敷跡
現在の足軽資料館は、藤掛家屋敷跡です。文久の士帳には、小将組藤懸?栄之助、長町5番丁とあり、家禄は300石 お寺は寺町の曹洞宗延寿山常松寺。
(足軽資料館・藩政期この辺りは中級武家地で足軽の住まいはなかった。)
拙ブログ
足軽資料館①
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12223773596.html
またまた、長町古地図めぐり
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11865308903.html
長町野村家・建物の見どころ
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11893941879.html
(つづく)
参考文献:「金沢古蹟志八編」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか