【長町2丁目】
長町2丁目は、前にも書きましたが、旧長町1番丁(下)~5番丁(下)の犀川側、そして旧長町川岸、旧横伝馬町と旧塩川町、旧宝船寺町、旧富本町、旧元車町の一部ですが、幕末、安政の地図や文久の士帳を見ると藩政期は略武家屋敷だった事が分かります。現在の長町2丁目は、駐車場やアパート、学校、公共施設、そして住宅も含めて約230軒がひしめいていますが、幕末は、武家屋敷46軒と比較すると随分屋敷地が大きい事が分ります。
(因みに、万治2年(1659)の金沢侍屋敷の定めによると、長町全域(旧1番丁~旧6番丁)で約120軒有る武家屋敷で家禄が1番多い家禄100石で敷地が約170坪(561㎡)、2番目の家禄200石で約200坪(660㎡)、以上300石~400石で約300坪(990㎡)500石~700石で400坪(1,320㎡)、800石~1,000石で550坪(1,810㎡)、この辺りにはありませんが足軽では50坪(165㎡)御小人は30坪(99㎡)さらに3,000石の人持組クラスでは900坪(2,870㎡)と家臣団が住む下屋敷を拝領していました。)
(googlemapより)
安政の絵図と文久の士帳を付け合せると
「安政の絵図」安政1年~2年(1854~5)「文久の士帳」(文久元年~4年((1861~1864)
長町(下)1番丁
(旧穴水町側)不破(320石・浄土宗法船寺)・富永(1500石・日蓮宗立像寺)・野口(3軒)
(大野庄用水に架かる御荷川橋より旧長町1番丁を見る)
長町(下)2番丁
(犀川側)本保・(日蓮宗経王寺)・中川・瀬川・浅加(4軒)
(旧穴水町側)安田・伊藤・田辺(200石・曹洞宗松月寺)(3軒)
(今の旧長町(下)2番丁)
長町(下)3番丁
(犀川側)天野(300石・臨済宗妙心寺派普明院)・不破(100石・浄土宗法船寺)・奥村・○田(4軒)
(旧穴水町側)杉江(180石・日蓮宗妙法寺)(現休憩館)・辻(180石・曹洞宗本覚寺)・田辺(400石・浄土宗了願寺)・武田・森(5軒)
(今の旧長町(下)3番丁)
(天野家の長屋門の案内板)
長町(下)4番丁
(犀川側)高○・西永(160石・真宗大谷派超雲寺)・原・横井(150石・日蓮宗妙慶寺)・進士(100石・臨済宗妙心寺派高巌寺)・笠井・武田・木島(8軒)
(旧穴水町側)高田(550石・真宗大谷派長徳寺)・小島(100石・浄土宗極楽寺)・森・脇本・麻生(200石・臨済宗妙心寺派宝勝寺)・大村(250石・曹洞宗長久寺)・山森(250石・曹洞宗久昌寺)・山田(200石・日蓮宗全性寺)・井上(150石・浄土真宗本願寺派弘願寺)・八島(150石・曹洞宗眞行寺)(10軒)
(今の旧長町(下)4番丁)
長町(下)5番丁
(犀川側)田伏(150石・日蓮宗妙慶寺)・杉本・小原(100石・日蓮宗立像寺)・○○・水野・竹内(100石・安立寺)・田内(200石・浄土宗妙慶寺)・改田(250石・浄土宗了願寺)田辺(9軒)
(家禄と檀那寺の入っているのが、地図にも士帳にも有る家)
(今の旧長町(下)5番丁の犀川側)」
(旧長町(下)5番丁にある寺院の松、藩政期は寺はない)
旧4番丁高田家の長屋門
高田弥八郎種昌は家禄550石で改作奉行などを歴任した中級武士で、屋敷跡には400石以上の武士に許された「長屋門」が今も残っています。しかも長屋門の土台石は、藩が許可した御留石の戸室石が用いられています。このクラスの藩士は外出するのが一般的に馬に乗って外出が許されていて門の左側に厩があり、右側には、馬などの世話をしる仲間といわれる武士奉公人が住む仲間部屋があります。
(443坪の屋敷地と武家屋敷は現在ありませんが、残された約270坪の敷地には大野庄用水を引き入れた池泉回遊式庭園が造られています。)
(高田家の長屋門)
(高田家の馬屋)
(高田家の庭園)
(つづく)
参考文献:「加賀藩組分侍帳」金澤文化協会 昭和12年7月 発行ほか