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長町⑥2丁目の幕末の地図と士帳(2)

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【長町2丁目】

前回の幕末の地図士帳では、武士の家禄を書きましたが、今回は、加賀藩の武士の家禄身分について簡単に復習します。簡単にと云うのは、私が観光ボランティアガイドになろうとしていた頃、書いたメモで、自分が理解できるようの書いたものです。

 

(何しろ当時始めてだったので、“参考文献”などを書く事など思いも寄らなかったことから書いてありません。詳しく知りたい方は図書館で加賀藩関係の本をお探し頂ければ幸いです。)

 

 

(石川門)

(赤い枠内は長町2丁目・安政の絵図より)

 

加賀藩の家格

年寄(加賀八家)11,000石~50,000(与力知含む)

藩政の執政役で月番と加判の職につく、「月番(御用番)は、月交代で藩政を主宰します。」「加番は、藩政についての審議に参加し、月番が起草した文章に署名する。」元禄3年には七家であり、軍事では人持組を7隊にわけ七手組の頭でした。以後、村井家が加わり八家となります。

 

拙ブログ

年寄“加賀八家”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11601085661.html

 

(今の河北門より菱櫓を望む夜景)

 

人持組(68) 1000石から14,000万石(与力知含む)

加賀藩の上士身分、約70家あり家禄は1000石から1万石を越える。(1000石を越えても人持組に加わらないものもある)このクラスから家老や若年寄が任命され、人持組から寺社奉行、公事場奉行、算用場奉行の要職を勤めました。

 

平士(1,511家)80石~2,400

軍事組織:御馬廻組・定番御馬廻組・組外・御表小将組・御大小将組・新番組

行政組織:武具奉行・宗門奉行・御細工奉行・改作奉行・町奉行・御馬奉行・会所奉行・割場奉行・御作業奉行・御普請奉行など

 

与力(190家)60石~300

御徒(3,802家)50俵~150

足軽(5,382家)20俵~25

(明治2年の士族・卒族など人口戸数などより・以下、小者中間など武家奉公人は割愛)

 

 

(初代加賀藩主前田利家公)

 

加賀藩の収入

加賀藩2代の前田利長公は関ヶ原の戦いの前 80万石を超える所領で、将軍の徳川家は初代利家公の室芳春院の人質や3代利常公に2代将軍秀忠の娘珠姫が入嫁など、協調路線をとってきました。そのため 徳川家からすれば、下手に敵対されると ダメージが大きいというためか、加賀・能登・越中 3国の 102万石が与えられます。加賀藩では、正保期(1640頃)には利常公の改作法等により内高(総収入)が112万石に増収し、その内家臣団の知行地は82万石であったが、文化期(1831頃)より藩の財政が逼迫し、家臣団に今の賃金カットに等しいしわ寄せがきます。慶応3年(1868には、内高139万石に増えていますが家臣団の知行地は75万石に下がっています。

 

(今の旧長町1番丁(下)辺り)

 

五公五民:農民に対する税を加賀藩では「免」といい、加賀では三ッ八歩(38%)、能登、越中は四ッ三歩(43%)で、これに「口米」と称する1石に付き1斗1が課され、ほぼ五公五民の割合でありましたが、農民が道路工事の人夫に出る費用を銀で支払う「夫銀」や副業(山林、原野から得られる収入)「小成物」、また罰金が厳しく、村単位で納税するシステムのため、納められない家があると村の責任になり、実際の収穫の8割近くを収めることにならざるをえなく、藩は“百姓と胡麻は搾れば搾るほどよし、生きぬよう、死なぬようにするが、慈悲なり”で、武士本位の政策で加賀藩は農民の生活を抑えて、収入の確保を図ったと言われています。)

 

(今の長町2番丁(上)辺り)

 

加賀藩士の収入

100石取りの武士は、実収43924と半分以下の石数にしかならず、例外を除いては1,000石でも比率のおいては変らず、また扶持米は平士及び平士並、御徒や御徒並みの1部や、町年寄、十村などに支給するもので、一人扶持男子玄米5合、女子は玄米3の割で、支給日は春渡し22日、暮れ渡しは102の算用場切手をもらい、それぞれ堂形(今のしいのき迎賓館のところ)米蔵で現品と引き換えました。切米は新番、足軽、小者など俵数で支給する玄米で、1俵は玄米5(加賀では)支給は1月から8月に至る分を春渡しとして3月、9月から12月までの分を暮渡しとして11月算用場切手でもらった。何れも町の蔵宿に預け、1石に2手数料を払い家族の1年に食べる分を引き、その残りを米仲買人に売り生活費にしました。また、合力米は、客分など純然たる家臣ではないので、石数で数え、玄米出給した。

 

(参考:文化文政時代の1石は1両。1両(銀60匁)は現在の10万円に当たります。NHKのドラマより)

 

 

(今のしいのき迎賓館・藩政期は米蔵の堂形)

 

加賀藩には、「百石6人泣き8人」という諺があります。100石では奉公人が幾人かを雇っていました。そのため家族6人が精一杯という事だそうです。

 

(今の金沢城・橋爪門続櫓・五十間長屋と菱櫓)

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀藩組分侍帳」金澤文化協会 昭和127月 発行ほか


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