【旧長町4番丁】
明治12年(1879)10月4日 石川県中学師範学校(石川専門学校の前身)で教授のかたわらキリスト教の伝道をする目的で、トマス・ウインが金沢に到着します。長町の案内に沼田悟郎(同校長)があたり、長町4番丁2番地に住むことになります。当時、長町にはリンゴ栽培が盛んで、ウインは高値のリンゴを買い 遠く新潟、愛知などの外人に贈ったので、市価が高騰し、これが幸か不幸か長町の武家屋敷が壊され町ことごとく果樹園になったといいます。当時「長の林檎(リンゴ)に村井の柑子(みかん)」といわれた所以らしい・・・。
(トマスが後に住んだ飛梅町のウイン館・ベランダの階段に座るウイン氏)
(曳き家で移動した現在のウイン館)
そのリンゴ栽培計画は長町界隈だけでなく、当時の県知事李家隆介が「名勝兼六園」を伐採して大果樹園を企画した事もあったと伝え聞きます。あわやのところで名園はその難を免れたものの、長町の武家屋敷は、屋敷をことごとく壊し畑にしたので、残ったのは塀や長屋門のみになります。お陰で今、残った屋敷は大屋家だけとなり、やがて「りんご」は青森や長野に及ばず没落してしまいます。それにしても兼六園が「大果樹園」になっていたとすれば??兼六園がまぼろしになっていたと思うと、「石橋を叩いても渡らない」という県民性によるものと断言出来ますが、リンゴを支える“リンゴ吊”の方法が松や樹木の雪外対策の「雪吊り」を生み、ちゃっかり応用した先人の小利口さが、今では兼六園の冬の名物になり観光客を楽しませています。
(兼六園のリンゴ吊り)
(現在の兼六園)
(「リンゴ」の栽培は、明治8年(1875)金沢区方勧農場の指導で、リンゴ栽培が長町界隈で展開され、宮口、御園、松村氏等によって改良され、青森、長野よりは先に手がけたものの、すっぱい青リンゴと小さい海裳リンゴは、全国のニーズに合わなかったのでしょう。今では見かけませんが、私の子供の頃、リンゴといえば甘酸っぱい青リンゴでした。中学校になると崎浦地区のリンゴ農家の同級生がいて、売り物をカバンに忍ばせてきたのを、プールの隅っこで、ガッパンなってかじったのが思い出されます。)
トマス・ウイン
アメリカのジョージア州フレミントンの牧師の子に生まれ、アマースト大学とシカゴのマコーミック神学校を卒業。 1877年、ユニオン神学校を卒業した後、イライザーと結婚して明治10年(1877)12月に横浜に入港、横浜のジェームズ・バラの塾を経て明治12年(1879)にヘボンの推薦で石川県中学師範学校の英語教師になるため、妻や伝道師と共に金沢に赴任。石川県令の許可を得て、キリスト教の講義所を作り、10月5日北陸最初の礼拝を行います。明治14年(1881)には大手町の講義所で日本基督一致教会金沢教会(現、日本基督教団金沢教会)を設立。明治15年(1882)には私立愛真学校(後の北陸学院)を設立。明治16年(1883)には中田久吉や長尾巻、長尾八之門、狩谷芳斎らに洗礼を授けています。
(トマス・ウイン氏・北陸学院ウイン館提供)
明治4年~12年の長町界隈の出来事
明治4年(187hojye1)8月 政府は人民に散髪を命じられ、金沢では大屋愷アツ(旧2番丁の大屋家の初代)、岡田雄巣が卒先して散髪し、結髪者を驚かせた。
(旧長町2番丁の大屋家)
明治5年(1872)1月16日 長町川岸1番地(富永邸跡)に永山平太らにより明治義塾という私塾が創設され漢洋学を教授した。8月に至り廃止、区学校と合併した。
明治5年(1872)2月7日 長町4番丁に弘義塾を営む橋健堂が石浦町で女子教育のための塾を開いた。
(googlemapより・旧長町4番丁)
明治5年(1872)9月 長町の元金沢県庁(元加賀八家の長家跡)は金沢区会所となった。(明治6年12月区会所は他に移り明治9年まで小学校として使用された)
(元長家、明治になり金沢県庁)
明治6年(1873)1月16日 金沢長町で叢書堂が開設された。各種書物や日誌、新聞等を集め、ひろく市民に閲覧の便を与えた。当時の新聞報道によると「毎日利用者が群集。有志の拠金により設けたもので次第に完備させる」とある。
明治7年(1874)1月 長町小学校が創設された。
(長町小学校跡・現在は金沢中央公民館長町館)
明治9年(1876)12月4日 旧壮猶館内に石川県農事講習所(農学校の前身)が創設された。
(明治8年(1875)石川県農事講習所の(前身金沢区方勧農場)の指導で、リンゴ栽培が長町界隈で展開された。)
明治9年(1876)10月 宝船寺町小学校校舎は長町5番丁に移り勤成小学校と改称された。
明治10年(1877)3月 長谷川準也が銅器会社を創設した。従業員50余人、資本金1万円。
(2代目金沢市長長谷川順也)
明治10年(1877) 4月6日 長谷川準也、大塚志良、円中孫兵らが長町川岸52番地(製糸会社隣接地)に金沢撚糸会社を新設し撚操および再製を開始した。従業員は男女工85人、資本金1万3,000円。
明治12年(1879)10月4日 石川県中学師範学校で教授のかたわらキリスト教の伝道をする目的で、トマス・ウインが金沢に到着した。その町案内に沼田悟郎(同校長)があたった。
(本編の写真提供は、北陸学院ウイン館)
(つづく)
参考文献:金沢市立図書館(金沢の百年明治編)金沢市史編纂審議委員会 昭和40年5月・「長町界隈の侍帳(二)」長町住人抽出より 山森青碩著 金沢文化協会 昭和12年発行