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長町⑧長町3丁目の旧7・8番丁は藩政期村井家の家中町

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【長町3丁目】

今の長町3丁目の長町5番丁(下)の半分と6番丁そして78番丁長町川岸の一部からなり、その内、旧78番丁は森田柿園の「金沢古蹟志」には村井家家中町(下屋敷)で村井家の家臣の居住地でした。

 

 

明治4年(18714月戸籍編成の時、家中の名称を廃し、上家中は2町あるを以て、長町へ属し、長町7番丁・長町8番丁とせり。と有ります         

 

安政の絵図と文久の士帳を付け合せると

 

(旧5番丁)

 

旧長町(下)5番丁

(旧穴水町側)武田(150石、浄土宗浄安寺)・山崎(850石、曹洞宗常松寺)・印牧・藤掛(藤懸)(300石、曹洞宗常松寺)・勝木・坂井(450石、臨済宗少林寺)・井上(350石、曹洞宗松月寺)・渡辺・寺田・橋本・佐々(200石、日蓮宗本是寺)(11軒)他等雲寺

 

(長町3丁目)

(旧6番丁)

 

旧長町6番丁

(犀川側)田辺170石、法華宗本長寺)・松田・八島北岡(喜多岡)(400石、曹洞宗月照寺)・森田500石、真言宗伏見寺)・山崎(○○石、曹洞宗常松寺)・内藤50石、曹洞宗常松寺)・沢村脇本130石、日蓮宗立像寺)・300石、曹洞宗融山院)・中川200石、曹洞宗宝円寺)・石川150石、日蓮宗円乗寺)12軒)

(旧穴水町側)瓜生150石、法華宗承証寺)・伊藤200石、臨済宗妙心寺派瑞光寺)・本保薄井印牧(かねまき)(130石、日蓮宗妙成寺)・山崎200石、真言宗波着寺)・酒井150石、真宗本願寺派照円寺)・塩川100石、法華宗承証寺)・八島大場300石、日蓮宗法光寺)・瀬川120石、日蓮宗妙法寺)・佐川150石、日蓮宗立像寺)・河島松原100石、日蓮宗妙典寺)・織田3000石、曹洞宗龍淵寺)・毛利120石、曹洞宗常松寺)森・別所・岡田武藤200石、日蓮宗立像寺)・高橋・山村・竹田富永150石、曹洞宗希翁院)24軒)

 

(旧7番丁)

旧長町7番丁、藩政期は村井家の上家中町。

 

(旧8番丁(現長町3丁目・左現長土塀1丁目)

旧長町8番丁、2筋の町で、8番丁の旧穴水町側が穴水町1番丁に属します。

 

(8番丁・郵政宿舎)

旧長町川岸の一部、藩政期は村井家屋敷で庭に当たる大野庄用水と鞍月用水の間。

 

(延宝の金沢図)

(織部邸跡・金沢こども科学財団(旧長土塀小学校)

 

織田織部邸跡

長町6番丁末北側。延宝の金沢図に織田小八郎が見へ、元禄6年(1693)の士帳に、織田小太郎長町山崎宇左衛門末とあり。織田氏元祖織部は、織田有楽の孫、織田長益の三男。利常公に奉仕し、3000を賜はり、寛永17年(1640)利治公が越中富山へ入部の時、富山の藩士と成り、富山へ行き、承応2年富山の国用不足に付、織部以下5名が金沢へ返され、明暦3年(1657)江戸にて没す。二代織部は、父遺知の内2500を賜はり.延宝元年没す。子が無かった、弟小八郎信重を嗣子とし、家督を継ぐ。信重の曾孫主税毎方は家老役を勤め、500石の加恩ありて3000とし、子孫之を襲ぎ、且その邸宅も世々居住す、廃藩の際家屋を壊し地所を売却し今は畠地。(金沢古蹟志巻22

(室鳩巣邸跡)

 

室掲巣旧邸

鳩巣翁は、旧藩5代綱紀公の儒士で居宅は長町織田小八郎の近所とあり。金沢に居た頃の旧邸は、織田氏の居邸より法船寺町へ出る問の武士家敷で、藩士中川武十郎という人の旧邸で、中川氏退去の後は、岡田某といふ入居住すとあり、右中川氏邸は、織田氏の向角たる佃氏の旧邸の横にて、延宝の金沢図に青木義兵衛の居宅とするものとあります。

(安政の絵図)

 

儒学者室鳩巣

万治元年(1658)武蔵国谷中村(現在の台東区谷中)生まれで本職は医師。14歳の時、加賀藩に仕え、5代藩主前田綱紀公の命で京都の木下順庵の門下となり、正徳元年(1711)、新井白石の推挙で、江戸幕府の儒学者となります。徳川家宣、家継、吉宗3代に仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられ献策と書物の選進、吉宗に時代にはブレーンとして「享保の改革」を補佐します。湯島聖堂において朱子学の講義を行い、赤穂事件で赤穂浪士への処罰をめぐり浪士を擁護し“義士”と初めに云った事でも知られています。加賀藩での門下生は奥村修運・青地斎賢・青地礼幹・小谷継成などがいました。著作「五常名義」「五倫名義」「駿台雑話」など31歳で「赤穂義人録」を発表。享保19年(1734)に死去。

 

(富本町交番前の室鳩巣旧邸跡)

 

余談:赤穂事件(忠臣蔵)について、室鳩巣から聞いた話をまとめた青地礼幹「河観小説」「大石内蔵助良雄、実は富山藩家老奥村蔵人の実子で、浅野家へ幼少の時、養子の出、大石と称す。当時、実兄の奥村杢左衛門は、赤穂事件の頃、謹慎されていた云々―高畠氏筆記」??を昔読んだことを思い出しました。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか


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