【長町3丁目】
今の長町3丁目の長町旧5番丁(下)の半分と旧6番丁そして旧7・8番丁と長町川岸の一部からなり、その内、旧7・8番丁は森田柿園の「金沢古蹟志」には村井家の家中町(下屋敷)で村井家の家臣の居住地でした。
明治4年(1871)4月戸籍編成の時、家中の名称を廃し、上家中は2町あるを以て、長町へ属し、長町7番丁・長町8番丁とせり。と有ります |
安政の絵図と文久の士帳を付け合せると
(旧5番丁)
旧長町(下)5番丁
(旧穴水町側)武田(150石、浄土宗浄安寺)・山崎(850石、曹洞宗常松寺)・印牧・藤掛(藤懸)(300石、曹洞宗常松寺)・勝木・坂井(450石、臨済宗少林寺)・井上(350石、曹洞宗松月寺)・渡辺・寺田・橋本・佐々(200石、日蓮宗本是寺)(11軒)他等雲寺
(長町3丁目)
(旧6番丁)
旧長町6番丁
(犀川側)田辺(170石、法華宗本長寺)・松田・八島・北岡(喜多岡)(400石、曹洞宗月照寺)・林・森田(500石、真言宗伏見寺)・山崎(○○石、曹洞宗常松寺)・内藤(50石、曹洞宗常松寺)・沢村・脇本(130石、日蓮宗立像寺)・佃(300石、曹洞宗融山院)・中川(200石、曹洞宗宝円寺)・石川(150石、日蓮宗円乗寺)(12軒)
(旧穴水町側)瓜生(150石、法華宗承証寺)・伊藤(200石、臨済宗妙心寺派瑞光寺)・本保・薄井・印牧(かねまき)(130石、日蓮宗妙成寺)・山崎(200石、真言宗波着寺)・酒井(150石、真宗本願寺派照円寺)・塩川(100石、法華宗承証寺)・八島・大場(300石、日蓮宗法光寺)・瀬川(120石、日蓮宗妙法寺)・佐川(150石、日蓮宗立像寺)・河島・松原(100石、日蓮宗妙典寺)・織田(3000石、曹洞宗龍淵寺)・毛利(120石、曹洞宗常松寺)森・別所・岡田・武藤(200石、日蓮宗立像寺)・高橋・山村・竹田・富永(150石、曹洞宗希翁院)(24軒)
(旧7番丁)
旧長町7番丁、藩政期は村井家の上家中町。
(旧8番丁(現長町3丁目・左現長土塀1丁目)
旧長町8番丁、2筋の町で、8番丁の旧穴水町側が穴水町1番丁に属します。
(8番丁・郵政宿舎)
旧長町川岸の一部、藩政期は村井家屋敷で庭に当たる大野庄用水と鞍月用水の間。
(延宝の金沢図)
(織部邸跡・金沢こども科学財団(旧長土塀小学校)
織田織部邸跡
長町6番丁末北側。延宝の金沢図に織田小八郎が見へ、元禄6年(1693)の士帳に、織田小太郎長町山崎宇左衛門末とあり。織田氏元祖織部は、織田有楽の孫、織田長益の三男。利常公に奉仕し、3000石を賜はり、寛永17年(1640)利治公が越中富山へ入部の時、富山の藩士と成り、富山へ行き、承応2年富山の国用不足に付、織部以下5名が金沢へ返され、明暦3年(1657)江戸にて没す。二代織部は、父遺知の内2500石を賜はり.延宝元年没す。子が無かった、弟小八郎信重を嗣子とし、家督を継ぐ。信重の曾孫主税毎方は家老役を勤め、500石の加恩ありて3000石とし、子孫之を襲ぎ、且その邸宅も世々居住す、廃藩の際家屋を壊し地所を売却し今は畠地。(金沢古蹟志巻22)
(室鳩巣邸跡)
室掲巣旧邸
鳩巣翁は、旧藩5代綱紀公の儒士で居宅は長町織田小八郎の近所とあり。金沢に居た頃の旧邸は、織田氏の居邸より法船寺町へ出る問の武士家敷で、藩士中川武十郎という人の旧邸で、中川氏退去の後は、岡田某といふ入居住すとあり、右中川氏邸は、織田氏の向角たる佃氏の旧邸の横にて、延宝の金沢図に青木義兵衛の居宅とするものとあります。
(安政の絵図)
儒学者室鳩巣
万治元年(1658)武蔵国谷中村(現在の台東区谷中)生まれで本職は医師。14歳の時、加賀藩に仕え、5代藩主前田綱紀公の命で京都の木下順庵の門下となり、正徳元年(1711)、新井白石の推挙で、江戸幕府の儒学者となります。徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられ献策と書物の選進、吉宗に時代にはブレーンとして「享保の改革」を補佐します。湯島聖堂において朱子学の講義を行い、赤穂事件で赤穂浪士への処罰をめぐり浪士を擁護し“義士”と初めに云った事でも知られています。加賀藩での門下生は奥村修運・青地斎賢・青地礼幹・小谷継成などがいました。著作「五常名義」「五倫名義」「駿台雑話」など31歳で「赤穂義人録」を発表。享保19年(1734)に死去。
(富本町交番前の室鳩巣旧邸跡)
余談:赤穂事件(忠臣蔵)について、室鳩巣から聞いた話をまとめた青地礼幹の「河観小説」に「大石内蔵助良雄、実は富山藩家老奥村蔵人の実子で、浅野家へ幼少の時、養子の出、大石と称す。当時、実兄の奥村杢左衛門は、赤穂事件の頃、謹慎されていた云々―高畠氏筆記」??を昔読んだことを思い出しました。
(つづく)
参考文献:「金沢古蹟志」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか