長町⑧長町3丁目の旧7・8番丁は藩政期村井家の家中町
【長町3丁目】今の長町3丁目の長町旧5番丁(下)の半分と旧6番丁そして旧7・8番丁と長町川岸の一部からなり、その内、旧7・8番丁は森田柿園の「金沢古蹟志」には村井家の家中町(下屋敷)で村井家の家臣の居住地でした。 明治4年(1871)4月戸籍編成の時、家中の名称を廃し、上家中は2町あるを以て、長町へ属し、長町7番丁・長町8番丁とせり。と有ります...
View Article長町⑩村井家に再嫁した利家公の7女千世
【長町3丁目】今年はNHKの大河ドラマで明智光秀を題材にした「麒麟がくる」が放送されるそうですが、今回は村井家2代長次に再嫁した前田利家公の正室まつ7女千世(春香院)について少しだけ紹介します。千世は、豊後細川家初代の細川忠興の嫡子忠隆の正室(ともに17才)に迎えられます。義母は、明智光秀の娘の細川ガラシャでした。 (金沢城)...
View Article長町⑪武家屋敷の奉公人達の明治(鬼川寄り合い)
【長町1丁目~3丁目】長町は、明治になると藩士は大小に関わらず家禄や屋敷を失い藩政期の豪勢さは消え、維新の困窮に耐え切れず、加賀八家の長家や村井家はもちろん、1番丁から6番丁の中級藩士、さらに村井家の下屋敷(旧長町7・8番丁)まで、殆どが離散没落します。しかし、藩に仕えた武士の陪臣、卒族と云われた足軽や小者たちは、維新の恐慌にもたくましく生き残ります。...
View Article長町⑫武家屋敷の奉公人達の明治(コッパ荷駄流しと川魚のつかみ捕り)
【長町1丁目~3丁目】前回に引き続き「鬼川寄り合い」です。今回は、“コッパ荷駄流し”と“川魚つかみ捕り”のお話です。“コッパ荷駄流し”の“コッパ”というのは、石置き屋根や土塀の屋根に葺く剥板(へぎいた)のことで、金沢ではコバ板とも言いますが、これが訛ったのか職人たちは“コッパ”と言ったのでしょう!?今は知りませんが、戦前は何方でも知っている言葉だったそうです・・・・。...
View Article長町⑭武家屋敷の奉公人達の明治(トマス・ウイン直伝とそれぞれの才覚)
【長町1丁目~3丁目】前に書いたキリスト教の伝導と県立中学師範学校教師のトマス・ウインは10年近く長町上4番丁に住みます。傍ら洋式の果樹栽培など地元に貢献していますが、その頃、小使として雇われた中村寅吉は、藩政期、同じ上4番丁の1000石津田弾正家で働いていましたが主家が明治7年(1874)東京へ移転後は屋敷の止まり野菜作りをして細々と口過ぎをしていました。...
View Article加賀の一向一揆伝説②若松本泉寺
【金沢市若松町】加賀の一向一揆は、長享2年(1488)の“長享の一揆”から92年間、前半の中心は、浅野川の川向こう今の若松の専徳寺辺りにあった若松本泉寺、後半は今の金沢城跡の尾山御坊でした。今回は一向一揆初期の話です。前回にも書いた一揆軍の数度かの戦いは、どれも92年間もの長い間続いた加賀の一向一揆が成立するためには重要なものだったと思われます。...
View Article加賀の一向一揆伝説③木曽坂城と田井
【金沢宝町・天神町】木曾坂城(宝円寺)は、木曾義仲ゆかりの樋口氏の城館だったといわれています。寿永の役で木曽義仲は小原往来の松根城に布陣したといわれていますが、寿永3年(1184)義仲は近江国粟津での討死により南征に夢破れ、樋口氏の一族が敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したものと思われます。 (木曽坂城跡・現宝円寺)...
View Article加賀の一向一揆⑤“蓮如入寂“そして“永正の一揆”まで
【山科・越前・越中・越後】本願寺の門徒は各地の大名とゆかりの深い武士が主力の教団でした。そのため政治情勢による対立を生じやすく、8世蓮如は、信仰以外は関知しないという立場を執っていて、時の将軍足利義尚に属する本願寺の立場に反する事には表立って反対する事なく、政治には原則不介入の立場を取っていました。...
View Article加賀の一向一揆⑥大小一揆(享禄の錯乱)
【加賀・能登・越中】“長享の一揆”の長享2年(1488)から“享禄の錯乱” (大小一揆)の享禄4年(1531)の43年間は、加賀を支配したのは若松本泉寺中心に蓮如上人の連枝の三ヶ寺とも四ヶ寺が統治した時代といわれていますが、実際は加賀国が北と南に2分され、河北郡と石川郡の北加賀は“若松の本泉寺”を拠点に統括、能美郡と江沼郡の南加賀は“波佐谷の松岡寺”を拠点に統括されていました。...
View Article加賀の一向一揆⑦享禄の錯乱から尾山御坊建立まで
【加賀4郡他】享禄の錯乱では、三ヶ寺側(小一揆)には越前の朝倉、能登の畠山、加賀の富樫も加わっていたが、若松本泉寺炎上以後、三ヶ寺側(小一揆)の土着の武士洲崎、河合は能登に逃れ、畠山、遊佐、神保、温井の援助のもと河北郡に進撃。享禄4年(1531)11月まで戦いは続き一進一退。その間、加賀の土着の武士や門徒も多く戦死し、朝倉軍も越前に引き上げ富樫一族も越前に亡命します。...
View Article一向宗一揆その後①秀吉と本願寺
【大坂・京都】本能寺の変で、織田信長が嫡男の信忠と共に倒されると、その混乱の最中に本願寺は明智光秀を信長に変わる者と見て使者を派遣しますが、天正10年(1582)6月13日光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗北すると使者を途中から引き返させます。 (石山本願寺)ウィキペディア(Wikipedia)...
View Article一向一揆その後②大悪党秀吉と伴天連追放令
【大坂・京都】秀吉に付いて何となくネットサーフィンをしていたら、関西出身の昭和の著名な作家が秀吉のことを「史上、類を絶した大悪党」と呼んでいた事を知りました。最近では、一般の人のアンケートでも戦国時代を代表する信長・秀吉・家康の3人の中で、ダン突とは言わないまでも秀吉が悪人の筆頭で、家康がダン突で“いい人”のようです。 (豊臣秀吉)...
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