【長町1丁目~3丁目】
前に書いたキリスト教の伝導と県立中学師範学校教師のトマス・ウインは10年近く長町上4番丁に住みます。傍ら洋式の果樹栽培など地元に貢献していますが、その頃、小使として雇われた中村寅吉は、藩政期、同じ上4番丁の1000石津田弾正家で働いていましたが主家が明治7年(1874)東京へ移転後は屋敷の止まり野菜作りをして細々と口過ぎをしていました。
(ウインは、前出の洋式果樹栽培の他、穀物製粉の紹介にも力を入れ中村寅吉等の小者を使い指導して、水車式の脱穀製粉工場を開設、殖産に貢献します。)
(北陸学院ウイン館)
拙ブログ
長町⑦旧長町4番丁長町のリンゴとトマス・ウイン
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中村寅吉は、ウインからガラスの製造法を伝授され、以来ランプのホヤ造りを手掛け、やがてブリキのランプを製造し大成功したといいます。まさに新時代の新商品だったと云う分けです。その中村ガラス工場は昭和の初期まで、職人30名を擁する会社に発展したと云います。
杉村直次郎は、長町6番丁の350石井上醒次郎家に奉公していたが、トマス・ウインから習った製粉業を鬼川(大野庄用水)の水車を動力で旧8番丁の角で脱穀製粉工場を開設しています。玄米の脱穀精白やイリ粉、白玉粉、小麦粉の製粉で大当たりをします。鬼川(大野庄用水)や鞍月用水の水を利用し5馬力の水車を動かし、働き者の足軽や小者達によって、廃れた長町界隈を活性化し、やがて製糸、撚糸、紡績工場へと発展します。
(現在の旧8番丁)
足軽河村順三は、長町4番丁の550石高田与八郎家に仕えていたが、明治6年(1873)に薬販売を手掛けます。当時、大手町(旧津田玄蕃邸)にあった金沢医学館に通学し薬の調剤法を学び、明治10年(1877)に長土塀に店を構え家庭薬を売り出します。目薬や傷薬、ガ一ゼ、包帯、オキシフル、アルコールなどの洋薬が人気を呼び、老舗の薬種問屋も顔負けの繁盛だったという。
(旧4番丁の高田家)
足軽東山平蔵は、長町6番丁の500石森田常太郎家に仕えていたが、金沢の鍛冶町の出身だったことから長町下5番丁に地所を求め鍛冶屋を開業します。手造りの包丁、鎌、鍬、鋤、さらに荷車の鉄輪が上々の評判で、長町の「東山鍛冶」と言われるようになり、繁盛し多忙な日々を過ごす、明治10年(1877)から建築用の洋釘を造り、折からの建築ブームで職人10人を置く鉄工所に発展したという。
足軽三浦喜八は、長町上5番丁の3530石竹田掃部家に仕えていたが、長町界隈の3軒の粉屋から米糠を譲り受け、これを餌に空き屋敷跡に鶏舎を建て、”名古屋コーチン“150羽を放し飼いにし養鶏業を始めました。取れた新鮮な赤玉卵は評判となり、さらにカシワ肉の小売りを始め成功します。やがて牛乳販売の丹羽初三郎と組んで牛乳も手掛け大成功をおさめたという。
谷内貞吉は、長町上3番丁の450石由比勘兵衛家に仕え、手内職で覚えた元結仕事から床山を思い付き、明治5年(1872)にささやかな店を開き、カミソリとハサミの腕を磨き、10年後には内弟子3人を置く、ひとかどの床屋にしたという。
(旧長町上4番丁)
さらに、長町上3番丁の800石野村伝兵衛家に足軽として仕えた某は、慰労金代りとして馬と荷馬車を貰い、屋敷に居残り荷車を使い武家屋敷界隈の人糞、下肥を集め毎日くみ取った桶10本を馬車に積み契約していた豆田、板橋、三馬、押野の農家の溜め桶に配り、1回に付き80銭の手間賃が、盆暮れに精算され結構な稼ぎになったという。
(鬼川と右野村家)
やがて、26人の若者が人糞を集めに精をだし、めいめいが蓄えた小金が財になり、これらの元足軽が皆、ひとかどの金持ちになり、中には子供に学問をつけさせ官員や弁護士に就かせた者もいたという。
節季には、これらの農家から藁すべ束や餅米、大豆、小豆が届き、それを各家にお礼代りに配り喜ばれたという。藁すべ束は、今のトイレの紙の代用で、当時はお尻を拭きには、なくてはならない必需品だったという。
佐藤伊一は、長町6番丁の300石大庭巴三郎家で、調理をしていた経験を生かし、流しのうどん屋を始め次第に成功し、旧穴水町(長土塀1丁目)の角で蕎麦屋を開業。程なく、料理の仕出しに乗り出し繁盛したとそうです。
他には、研磨ヤスリの矢田半七、古本の渡部伝助、女子講塾の橋健堂らの名を上げ、主家の廃屋を守って長町に止まり、それぞれの名を高めたと結んでいます。
(この項おわり)
参考文献:「月間アクタス」“続迷宮の旅”石川史秘話第51話の「長町・武家屋敷の足軽たち維新をたくましく生き行き抜いて」など