【長町1丁目~3丁目】
“鬼川寄り合い”は、主人を失い長町に置き去りにされた、零細な武家奉公人のための組合だったのでしょう。そして、その記録は当時長町で強かに生きた武家奉公人達の庶民史でもありました。著者は、前にも書きましたが、藩政末期、与力の清水伝兵衛だと“続迷宮の旅”に書かれられていて、その頃、長町界隈の小者等約100人の束ね役で、鬼川(大野庄用水)の武家屋敷界隈の生き字引だと伝えられていますが、没後の消息は一切不明だとそうです。
(鬼川)
(与力の清水伝兵衛は、文久の士帳にも大隅守(長家)与力にも又兵衛(村井家)与力にも見当たりません。ご存じの方は教えて頂ければ幸いです。)
多分組合は、長町界隈の請負仕事の窓口で、仕事の采配や徴収、分配を行う事務局だった思われますが、それを推測する事例が記されているので以下に記載します。
(鬼川と鬼川(大野庄用水)の石標)
(武家奉公人には若党、中間、小者などと呼ばれ、藩や家によって多少意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではなく、若党(わかとう)は、藩政期、武家に仕える軽輩で、身分は御徒と足軽の中間とも足軽以下とも言われ、「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた者もいたそうです。また、一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったという。中間(ちゅうげん)は、脇差一つを差し、屋敷内の中間部屋に住み、馬の世話や主人が登城の際、馬の轡取り、毛槍、鋏箱持などのお供をした。小者(こもの)は、住み込みで主に雑用を行い、小人(こびと)、下男(げなん)とも言いました。)
(高田邸の中間部屋)
明治6年(1873)4月、長町5番丁の1400石浅香主馬が、維新の窮迫に耐えきれず北海道開拓に出払い、家屋の取り壊しと後片付けを鬼川寄り合いが請負っています。大戸宏氏の”続迷宮の旅”に鬼川寄り合いの小者30人が1週間かけて働いた細目が記されていて、その時支払われた手当と思われる金額が明記されています。
(左、浅香邸跡(今聖霊病院)・突き当り右が旧長町5番丁)
それによると「・・・七日の日歩四十七円也。」と記されていますが、日歩と云うのは、
元金百円に対する一日分の利息で表した利率のことですから、誤記ではと思われます。
当時の諸々の日当から調べて見ると、日歩とあるのは7日間の30人の日当ではないかと思われます。
(明治10年頃、大工日当は42銭・理髪1回10銭・そば1銭で、その頃の四十七円を30人で割ると1円70銭、そして1人1日の日当を計算すると24銭になります。明治10年当時の1円が2万円だとすると今の金額に直すと1人の日当4,800円、1週間で33,600円になり、妥当なように思われます。因みに明治10年頃の巡査の月給は4円(現在の8万円か!?)でした。)
(長町上5番丁の浅香邸跡・長町下5番丁の藤懸邸跡)
《武家屋敷から集める廃材やコバ板(コッパ)を集めた風呂屋》
安政の末期、武家奉公に見切りをつけた長町5番丁300石藤懸榮之助家の中道次郎兵衛は、鞍月用水の流れを引いて水車を回し、その動力で井戸水を汲み上げ、これをお湯にし、風呂屋を経営します。ヒノキ板で浴槽を造り、流し場もヒノキ造りで、竹を割った樋でふんだんに掛け湯を流す混浴の銭湯は、清潔さが評判をとり、開業から押すな押すなの入りで賑わったと云う。
(長町5番丁辺りの鬼川)
風呂釜の燃料は武家屋敷から出る廃材やコッパ板を集め、元手いらず!!明治2年(1869)には浴槽を板壁で男女別に仕切り壁面に下げた大鏡が人気を呼んで大繁盛したという、長寿湯と称し、大人一人七文(現在の125円)洗髪三文(現在の58円)だったと云う。しかし、現在は何処に在ったかは定かではありません。
(つづく)
参考文献:「月間アクタス」“続迷宮の旅”石川史秘話第51話の「長町・武家屋敷の足軽たち維新をたくましく生き行き抜いて」など