【長町1丁目~3丁目】
前回に引き続き「鬼川寄り合い」です。今回は、“コッパ荷駄流し”と“川魚つかみ捕り”のお話です。“コッパ荷駄流し”の“コッパ”というのは、石置き屋根や土塀の屋根に葺く剥板(へぎいた)のことで、金沢ではコバ板とも言いますが、これが訛ったのか職人たちは“コッパ”と言ったのでしょう!?今は知りませんが、戦前は何方でも知っている言葉だったそうです・・・・。
(今、土塀の屋根に葺かれたコッパ(コバ板)
(今、金沢では石置き屋根は復元したものも含め数軒ありますが、藩政期武士といえどもその多くは石置き屋根の家に住んでいました。藩政期は森林資源を温存するため「七木の制」を敷いた加賀藩では、秋田や能登辺りから木材(杉・さわら・草まき・あて)を運び、宮腰(今の金石)を移入港と定め、材木奉行や板枇(いたへぎ)奉行が置かれ、金石が板剥(いたへぎ)の中心地になりました。)
拙ブログ
板葺き石置き屋根①金沢らしさ?
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11400781991.html
板葺き石置き屋根②職人さんの話
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11403306804.html
(鬼川(大野庄用水)・長町五の橋より四の橋方向を望む)
コッパは、原木や加工したものを金石から犀川を舟で木倉町や出大工町に運ばれ、武家屋敷の屋根や土塀の屋根葺きのため、長さ1尺7寸5分から2尺、長径2尺の束にして7月の川干しの前から長町の武家屋敷の屋根用に貯え、注文に応じ鬼川を7日かけて流すしきたりになっていました。コッパの束には木札を付けて上流(鬼川・今の大野庄用水)から下流に流し1番丁(長町一の橋)から7番丁(長町七の橋)の川戸(こうど)で小者たちが手で拾い、路上に山積みに荷揚げされ、小者は雇い先の屋敷に運んだと言います。藩政期から明治初期までの金沢では、御荷川下流の武家屋敷ではコッパに費やす莫大なお金と手間が掛かりました。まさに木質都市だった事がよく分かります。
今、金沢市が進めようとしている木質都市とは、目的が一寸違うようですが・・・!?
(川戸(こうど)新しく造られた鞍月用水のもの、今、大野庄用水には無い)
(長町三の橋)
(元禄から慶応まで、金石の材木問屋から原木や加工して犀川を遡り裏伝馬町から出大工町に馬車で運ばれ、コッパに剥(へ)がれ束ねられ、鬼川(御荷川・今の大野庄用水)の下流にある木揚げ場の川戸(こうど)に揚げる作業が連綿と続けられてきた事や、明治維新まで、足軽や小者達の100人を越える鬼川寄り合(組合)が存在したことが分ります。)
(安政の絵図、長町界隈・石川歴史博物館蔵)
「鬼川寄り合」の明治以後の記録によると
長町上4番丁・620石進士啓太郎(大小将組)コッパ26束代金24円・鬼川寄り合菊井文助(卒族)・90銭
長町上1番丁・300石福田左固衛門(御馬廻組)コッパ14束代金12円50銭・鬼川寄り合寺本外松(卒族)50銭
(進士家のあった長町4番丁の通り)
(福田家と長町1番丁)
(この記録は、卒族や代金が円になっているので明治維新後のもののようですが、藩政期の名残か石高があります。(大小将組や御馬廻組は私がかってに書いたものです。) なお、明治10年頃までの1円は今の2万円くらいだったそうです。)
(鬼川と御荷川橋)
コッパの荷駄流しが終わると、盆までの3日間、御荷川は夏の川干しと川浚えの季節になります。犀川からの取入口は塞がれ、用水を管理する小者達は一斉に川に入り、鯰、鰻、鮎、沢蟹、えび、鯉、うぐいなどの川魚をつかみ捕りし、生簀に放し食料の足しにしたり、生簀に蓄えた川魚を祭りや正月のご馳走に、また、病人の栄養源に供し、鯰や鰻は蒲焼に、沢蟹やえびなどの小魚は佃煮にして商いにしたと言います。それから、用水を引く庭を持つ屋敷から、使用料金を徴収する村方の用水親水組合の世話賃を稼ぐなど、強かに稼いでいます。
(用水を庭に引く取入れと排水口)
(若い頃、木倉町に架かる御荷川橋で、鮎が大量に犀川より流されてくる様子を覚えていますが、昨年ももろこが数匹流されてきて、うろうろしている姿を発見しました。)
(つづく)
参考文献:「月間アクタス」“続迷宮の旅”石川史秘話第51話の「長町・武家屋敷の足軽たち維新をたくましく生き行き抜いて」「加賀能登に職人-手仕事の心―」NHK金沢放送局編
昭和56年11月発行