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加賀の一向一揆伝説①長享の一揆(1488)以前

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【若松~浅野川~田井】

室町幕府後期、応仁・文明の乱において、国の秩序はますます乱れ、それに乗じて北陸でも「ワタリ」「タイシ」と言われる土豪が蓮如上人の教えを精神的な支えに、荘園の押領行為を繰り返し既存勢力に対抗していました。文明6(1474)「文明の一揆」は富樫家の内紛に関与したもので、文明13年(1481「越中の一揆」においては既存勢力VS一向宗(蓮如の連枝井波の瑞泉寺)・土豪軍の図式で一向宗側が勝利し、さらに長享2(1488)6月の「長享の一揆」に至り、一向宗と土豪の連合軍守護富樫政親軍を滅ぼし、加賀は「百姓の持ちたるような国」と言われるようになります。

 

 

 

一向一揆の研究者井上鋭夫氏によると、ワタリとかタイシは農業以外の生業につく人々で、ワタリ(渡り)は舟を操って漁労や物流を業とし、タイシは太子信仰をもって蓑作りや塩木流し筏流しに従事した人々で、原始一向宗が強い太子信仰をもっていたらしく、そうであればワタリタイシといった川の民は原始一向宗の人々だったのではないか?さらに追求すると近世ではタイシは川の民と記録されたが、中世では実は山の民だったのではないか?となると両者は、元々「山の民」で、次第に親鸞などの浄土信仰で繋がり、やがて両者のネットワークが形成されて行ったと考えられます!?

 

 

 

“応仁・文明の乱” 応仁元年(14675月、足利幕府の8将軍義政の弟・義視と日野富子が生んだ実子・義尚の相続争いが、斯波、畠山両家の内紛におよび、ついに全国ほとんどの地域を戦場にしてしまいました。これを期に世間の騒動は、まるで荒野に戦車を突き進ませるようなすさまじさで展開し、加賀でも、それに乗じて富樫の内紛が東軍と西軍の代理戦争化します。)

 

 

 

“加賀の文明の一揆”

文明6年(1474

富樫政親(兄)・本願寺派の一揆勢・白山衆徒。東軍(細川勝元)赤松・朝倉(西軍を裏切り東軍へ)など

富樫幸千代(弟)・高田専修寺派。西軍(山名宗全)畠山・斯波など

(兄政親が勝利し、文明9(1477)に終焉します。)

 

“越中の一揆” 

文明7年(1475)蓮如が吉崎を退去した頃一揆勢は弱体化し、体制の挽回を図るが、文明の一揆では味方だった守護富樫政親の弾圧がはじまり、坊主・門徒は越中に逃れ、文明13年(1481)越中の福光城主石黒光義が富樫政親に呼応して医王山の天台宗惣海寺衆徒と語らい井波瑞泉寺を襲う、一揆軍が防戦に当たるが、湯涌次郎右衛門が率いる湯涌谷勢らの加勢もあり一揆軍が勝利し、越中の3分の1の砺波郡「一向一揆の持ちたるような国」になり、この戦いで自信を得た一揆軍が、後に富樫政親に挑み「長享の一揆」に勝利するきっかけになったという。

 

 

 

拙ブログ

“瑞泉寺”井波の風①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11321300822.html

 

“百姓の持ちたる国” とは、学校でも加賀は中世の一時期、一向一揆によって約100年間、農民による自治が行われたと学び、石川県を紹介するいろいろなものにもその様に書かれています。これは蓮如の10男実悟の「実悟記拾遺」に述べられた「・……近年は百姓の持ちたる国のようになり行き候ことにて候。」から誤解して伝わったもので、当時は、今、私達がイメージする農民=百姓とは異なるもので、百姓とは被支配階級と理解すべきで、長享の一揆では、支配者が守護大名から土豪と連枝の寺に代わり、享禄の錯乱では支配者が本願寺に代わったと理解すべきです。しかし、国中が戦場と化した応仁の乱のあと、統制力を失いかけていた足利幕府にあっても、地方では幕府が任命した守護大名が支配する体制のため、加賀では守護は傀儡で存在しました。

 

 

 

中世の一向一揆は、江戸時代の百姓一揆とは違い、暴動や戦争の事ではなく、今風に言うと組合と言うか、一味同心と言うか、昨今、流行のラグビーのワンチームで、気持ちを一つにする事で、そこに住む人たちが中心に共同で国を作り守ったという事のようです。

 

一向一揆「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味で、「一つに専念すること」を意味します。経典によると阿弥陀仏の名号を称えることで、親鸞を宗祖とする「真宗教団」では、時宗の一向派を指す呼称ということから嫌い、親鸞の師である法然上人の浄土宗では「浄土真宗」と自称することを嫌い「一向宗」と呼びました。したがって「一向宗」は真宗教団門徒から見て正しい呼称ではありませんでした。

 

 

 

加賀の一向一揆は、結構、複雑で説明をすると時間がドンダケ有っても足りませんが、あえてシンプルに言うと、幕府側から見ると宗教団体地域のボスが、統率力が衰えた幕府の言う事に従わず、自分らのやり方で約100年間、加賀の国を治めたということです。今風に言うと地方分権と言うのでしょうが、幕府から見ると秩序を乱し国家のシステムに逆らう輩と言う事で、とんでもない地域と言うことになります。

 

(このように守護大名による支配を排除した史上類のない共和体制は、織田信長軍によって占領されるまで約100年間続きます。)

 

(つづく)

 

参考文献:加賀藩十村役田辺治郎吉 清水隆久著 加賀藩十村役田辺治郎吉刊行会平成88発行 松岡正剛の千夜千冊「山の民・川の民・井上鋭夫」等

 


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