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加賀の一向一揆伝説②若松本泉寺

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【金沢市若松町】

加賀の一向一揆は、長享2年(1488)の“長享の一揆”から92年間、前半の中心は、浅野川の川向こう今の若松の専徳寺辺りにあった若松本泉寺、後半は今の金沢城跡の尾山御坊でした。今回は一向一揆初期の話です。前回にも書いた一揆軍の数度かの戦いは、どれも92年間もの長い間続いた加賀の一向一揆が成立するためには重要なものだったと思われます。

 

 

 

“若松本泉寺”

蓮如上人7蓮悟によって二俣から若松(文明の一揆で破れるまでは地頭狩野氏の城)に長享元年(1487に建立されます。その翌年、長亨の一揆で高尾城の富樫政親を滅ぼします。そして百姓のもちたるような国が出現しました。その後、若松本泉寺は、能美郡波佐谷の松岡寺、江沼郡山田の光教寺と共に加州三ヶ寺中心とした体制でスタートをきるが、やがて若松本泉寺主導権を握り、亨禄4年(15317月の“享禄の錯乱”まで若松本泉寺は、加賀の国の最高実力者となりました。

 

 

(中世の若松図・真ん中に専徳寺・上に御旧蹟・多屋所・蓮乗墳墓など)

 

二俣本泉寺と蓮如上人の北陸下向:本泉寺が開かれた嘉吉2年(1442)如乗31歳、蓮如上人28歳。北陸地方への布教を願っていた蓮如上人は、親しい叔父如乗夫婦の住む二俣の地を拠点として加賀・越中の布教を開始します。蓮如上人は生涯に大きくは三度の北陸布教の旅をされますが、その度ごとに二俣に立ち寄られます。第一回目は本泉寺が創建されて7年目の当たる宝徳元年(144935歳の年です。この時は父親の存如上人(如乗の兄)も健在で、親子での忘れ難い旅となります。第二回目はそれから19年後の応仁2年(146854歳の年です。このときにはすでに本願寺の門徒が増えていたようで、第三回目は3年後の文明3年(147157歳の年です。このときは加賀・越前の境の吉崎に坊舎を開いた年に当たります。この年から文明7年(1475)に吉崎を退去するまで4年間は、北陸に留まって精力的に布教されます。加賀二俣松扉山本泉寺(真宗大谷派)ホームページを引用。

 

 

 

波佐谷松岡寺:蓮如の三男蓮綱が二俣本泉寺の蓮乗に招かれて「能美郡山田の池の城」に寺坊を開き、以後、古屋に移り、松の木が多いのと地名に難があるということで、新たに松岡と名づけたと言われ、これによって蓮如が松岡寺と寺号を定めたと言われています。この松岡寺が波佐谷(小松)に移転したのが文明10年(1478)頃と考えられていて、以後、若松本泉寺、山田光教寺と並ぶ賀州三ヶ寺の1つとして栄え、住持の蓮綱は文明年間の後半期、本泉寺蓮悟とともに加賀一向一揆を統括した。享禄4年(1531)の錯乱では、白山麓の山内に籠る藤島超勝寺・和田本覚寺と協力した三河国門徒軍に奇襲され、松岡寺一族はほとんど山内に連行・監禁されます。波佐谷松岡寺ホームページ引用。)

 

 

拙ブログ

光教寺さん

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10697203986.html

 

北陸地方に浄土真宗の教えが根づいたのは、一向宗の本山・石山本願寺の蓮如が越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を構えてからですが、とくに加賀国で強大化したのにはもうひとつ別な理由がありました。それは応仁の乱です。加賀の守護・富樫政親弟・富樫幸千代と争い、政親は自軍に有利な状況を作りだすため、本願寺門徒の協力を求めたことで、その結果、政親は加賀の守護大名として勢力を伸ばすことに成功しますが、同時にそのことによって、一向一揆の勢力も伸びることにもなり、ついには、長享2年(1488富樫政親一向一揆との戦いとなりました。

 

 

 

政親の高尾城(金沢市高尾町)は、20万人といわれる一向一揆の大軍に包囲され、政親は自刃し、以後、加賀は「百姓の持ちたる国のようになる」とよばれ、守護不在の加州三ヶ寺、三山の大坊主の国として約40年続くことになります。

 

ところが、しだいに三山の大坊主と他の浄土真宗の坊主とのあいだには主導権争いが始まり、それから約40年後の亨禄4年(15317大一揆(本願寺と福井の坊主)小一揆(加賀の三山の大坊主と土豪)の対立から“享禄の錯乱”となり、戦いに敗れた小一揆側の三山の大坊主とこれに結びついた土豪は没落し、本願寺直参衆を中心にした大名領国制に近い本願寺の直接指導体制が完成し、その出先機関として天文15年(1546加賀平野に突先の小立野台地先端に尾山御坊が設けられました。

 

 

 

若松本泉寺跡は、“亨禄の錯乱″の翌年、念西というお坊さんが念西道場を焼け野原に築きますが、度々、火災に遭うなどに遭遇するが、脈々と今に繋がっているのが現在の専徳寺だと言われています。)

 

(つづく)

 

参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」紺谷啓著「天神町二丁目の歴史と思い出」森田平次著「金沢古蹟志」「日本地名辞典」平凡社、など

 


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