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加賀の一向一揆伝説③木曽坂城と田井

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【金沢宝町・天神町】

木曾坂城(宝円寺)は、木曾義仲ゆかりの樋口氏の城館だったといわれています。寿永の役で木曽義仲は小原往来の松根城に布陣したといわれていますが、寿永3年1184)義仲は近江国粟津での討死により南征に夢破れ、樋口氏の一族が敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したものと思われます。

 

(木曽坂城跡・現宝円寺)

 

以後、子孫は文明の一揆(1474)において、若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北。その後、木曾坂城(宝円寺)と、眼下の高垣堡(天神町緑地)、右翼の椿原堡(椿原天満宮の上)、左翼の田井堡(城)(国立医療センター)の“鶴翼の陣”は、本源寺家老松田次郎右衛門本源寺(今の兼六園の一角に有ったという?)を守るために再構築されたと考える歴史学者もいます。

 

 

(金沢・中世の砦跡)

 

拙ブログ

本多町と一向一揆伝説④松田次郎左右衛門

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12302947180.html

 

 

(田井城・現医療センター・八坂)

 

本多町と一向一揆伝説②州崎慶覚その一

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12300018489.html

本多町と一向一揆伝説②州崎慶覚その二

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12300840726.html

 

(文明の一揆(1474)の敗戦後、地頭狩野氏の屋敷跡に二俣より若松本泉寺(1487が入り、長享の一揆(1488)では、高垣堡、椿原、田井城、石那坂堡と共に一向一揆軍は若松本泉寺の防衛線になったものと思われます。)

 

高垣堡(天神町緑地)

文明の頃、木曾坂城の前陣の備え、樋口氏の縁戚高垣氏の居城であったものと思われます。

藩政期、人持組品川氏(安政の侍帳では禄高3000)の屋敷が置かれていました。(昭和30年代の町名変更以前は品川町と称されたところ。)天神町には、今も高垣姓樋口姓の家があると聞きます。

 

(高垣砦跡)

 

拙ブログ

旧品川町と品川左門

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjI4JOSnrLnAhWFxIsBHXXqAUwQFjAAegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkanazawa-saihakken%2Fentry-11469396266.html&usg=AOvVaw1DMh6EywNVFAEV-Fkk5VIH

 

椿原堡(椿原天満宮)

椿原天満宮の奥殿の背後に“天神山”と呼ばれる段丘があります。この丘に椿原堡の見張り台があり、文明の頃には、木曾坂城の右翼の支城として、樋口氏の武将で姓氏を欠くが左近将監という者が守備をしていたものと伝えられています。文明6年(1474)の文明の一揆では富樫幸千代についた樋口氏はともに敗北し、以後、田井城の松田次郎左衛門が堡として守備にあたったものと思われます。長享2(1488)長享の一揆を前に松田次郎左衛門洲崎慶覚の騙し討ちで没し、享禄4(1531)享禄の錯乱では、2代目の洲崎兵庫が若松の本泉寺防衛のため“椿原堡”を補修し立てこもったものと考えられます。

 

 

椿原堡の見張り台)

 

洲崎兵庫について諸説ありますが、「朝倉始末記」によると、享禄の錯乱に敗北し、能登に逃れ畠山家俊、遊佐、神保、温井、三宅各氏らとともに加賀侵入を図ったが、享禄4年(15311029日の合戦で討死したという。)

 

 

拙ブログ

一向一揆の堡椿原天満宮

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10948785058.html

 

石那坂堡(現田井菅原神社)と田井村

中世期、田井の村域は現在の石川門東口の紺屋坂付近までを含むかなり広い地域で、集落は現在の賢坂辻辺りにあった。天正11年(1583)前田利家が領主となり現在の馬坂辺りに転地され、さらに慶長期(15961615)の城下町発展とともに村地は町場化し、徐々に南西方、浅野川岸一帯に移転し、集落は現在の田井菅原神社辺り移る。寛文10年(1670)の村御印では草高482(他新田3石)免六ッ二歩で、他小物成(山役32匁、蝋役1匁)があった。寛文年間には家高数7・百姓数14、地内には如来寺、経王寺の寺領、十村扶持なども含まれていた。

 

 

(石那坂堡跡)

 

(田井の村名の由来は、名水の涌く田井戸により、浅野川上流域からの伏流水が地下に溜まっていたものと思われます。)

 

 

 

拙ブログ

田井菅原神社と田辺次郎吉

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiclpy8rbLnAhVDBKYKHT7HBg0QFjACegQIBhAB&url=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkanazawa-saihakken%2Fentry-10939664716.html&usg=AOvVaw3hzQ6iq1qf22a-Tk7QvE7x

 

 

(二俣越(オコ谷往来)現天神町)

 

浅野川大橋から二俣越え(二俣往来)

浅野川大橋から約20m、橋場町寄りの東南に入る道が旧北国街道と二俣越との分岐点となます。これを二俣越え(オコ谷往来)といい歴史的にも知られた街道で、古くは、寿永2年(1182)木曾義仲の倶利伽羅合戦のとき、松根城(松根山308)に布陣し、二俣越えの街道を通ったという記述や、また、一向一揆の時代、蓮如上人若松本泉寺に7男蓮悟を訪ね、さらに二俣にある次男蓮乗の傍室に行くとき、あまりにも難渋の山路であったので、オコオコといったという話も伝わっています。二俣越えは今の材木町から天神町、田井から浅野川を渡り若松を抜け越中砺波の福光までの22kmは、北国街道の大樋から福光間約47kmの半分の距離、しかも伝馬賃、宿場賃が掛からないので多くの人々に利用された往来でした。

 

(今の若松橋は、藩政初期に「此間川アリ、広サ15間、深サ3尺、歩渡り」(加越能三州道程記)とあるように、当時まだ橋はなく人々は歩いて浅野川を渡っていたと聞きます。橋が架かったのは文化13年(1816)。「加越能御絵図覚書」などには、越中往来橋(長8間、幅5尺)が架かっていたことが記されています。)

 

 

(つづく)

 

参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」

冨田景周著「越登加三州志」平凡社「石川県の地名」ほか


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