【鳥越城】
尾山御坊が織田軍の佐久間盛政に攻められて陥落すると鳥越城が加賀一向一揆の唯一の拠点となります。鳥越城は、白山麓山内の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正元年(1573)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅がはかられる中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもので、天正8年(1580)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされ、その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き攻防戦が展開されます。
(元亀元年(1570)に織田信長が大坂の石山本願寺と開戦して石山合戦が起こると、鈴木孫一の率いる鈴木党は、他の雑賀衆の集団とともに本願寺の10世顕如の求めに応じて本願寺に入り、織田軍と戦います。鈴木孫一は石山本願寺に篭った雑賀衆の中でも最有力の頭目のひとりで、孫一自身も本願寺の門徒でもあり本願寺にきわめて信頼されていました。また、その一族とおぼしき鈴木出羽守は、白山麓の山内で織田軍の来襲に備えて、鳥越城と附城二曲城(ふとげじょう)・瀬戸砦・尾添砦などが整備されるなど白山麓の要塞化が進められています。)
鈴木出羽守は、白山麓山内惣庄の旗本で雑賀鈴木氏の一族と思われますが、詳しくは分かりません。天正元年(1573)の4月には武田信玄が病没し、8月には織田信長が朝倉義景、浅井長政を滅ぼし、緩衝地帯が消滅した加賀一向一揆の勢力圏が織田氏の領地に隣接するようになり、加賀一向一揆衆に危機感が高まっている中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として鳥越城が築かれたものです。
天正8(1580)年閏3月、石山合戦は顕如の石山退場をもって終止符を打たれ、加賀の尾山御坊も陥落しますが、白山麓の一向一揆はその後も織田軍に抵抗し、柴田勝家との間で戦闘が続行され、山内衆の鳥越城側があまりにも強いので、柴田勝家は調略を図り、鈴木出羽守と4人の息子、若林長門などが松任城(今の白山市)で謀殺します。主を失った鳥越城は指揮権と士気を失い、天正8年(1578)11月に落城します。
(謀殺された一揆勢の首領達19人の首が安土に届けられその様子が「信長公記」に記されています。「十一月十七日に加賀一揆歴々の者十九人の首が安土へ届けられた」とあり、その中に鈴木出羽守とその子ら右京進・次郎右衛門・太郎といった名が記されており信長は大いに満足したと言われています。)
その後も山内衆の抵抗は終わらず、天正9年(1578)天正10年の2年の間、2度にわたり山内衆は鎮圧されます。天正10年(1579)3月1日には手取谷の山野に大規模な残党狩りが行われ、300余人の本願寺門徒が残雪を朱に染めながら磔刑に処せられ一向一揆は最終的に終結することとなりました。
その後、白山麓は約3年の間、荒れ地のままで、その後数年にわたり人影が見られなかったと伝へられていますが、それまでの諸資料や文書類は残っていないと言われています。「加賀は百年間、百姓の持ちたるような国」といわれた”加賀の一向一揆”は、ここですべてが終焉します。
しかし「百姓の持ちたるような国」はもう有りませんが、一向宗の門徒等がお寺に結集し一丸となった底力は、明治になり政府の神道国教化政策を頓挫させるほどの力を持っていたことはよく知られています。そして、私の祖母の時代までは確実に阿弥陀様は人々の活動や生活に大きな影響を与え続けていました。しかし、その思いは北陸に住む人々の心に今も引継がれているものと信じて止みません。
P.S:平成元年に発行された「加賀一向一揆500年」によると鈴木出羽守の守り本尊が一向宗の阿弥陀様ではなく、真宗にはそぐわない白山信仰の「如意輪観音」だったことが分かり、エエっと思う反面、同時代の豊臣秀吉が「宗教は八つも九つもあるから、どれを選んでも良い」と云い、また、前田家のお寺は複数の宗派にまたがっています。多分、昔も今も信ずる神や仏は幾つあっても良いのだと、来世の事は、昔から言われている鰯の頭でも信じた者は救われるのかも・・・・!?
また、鳥越城は、昭和52年(1977)から3ヵ年をかけての緊急調査によって多大な成果があり、昭和60年(1985)には国史跡に指定されています。
(おわり)
参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行 鏑木悠紀夫著「松任城と一向一揆」北國新聞社昭和63年11月発行 「加賀一向一揆500年」能登印刷 平成元年6月発行 鳥越城:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」