【大坂・京都】
本能寺の変で、織田信長が嫡男の信忠と共に倒されると、その混乱の最中に本願寺は明智光秀を信長に変わる者と見て使者を派遣しますが、天正10年(1582)6月13日光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗北すると使者を途中から引き返させます。
(石山本願寺)ウィキペディア(Wikipedia)
やがて石山本願寺の寺域を秀吉の大坂城に明け渡し、中島の天満に移転するよう命じられます。秀吉は関白になると、武家としての武威を発揮すると同時に、寺社に対する支配権を掌中にすると、武力で支配できない地域を天皇の綸旨を下すことにより、関白秀吉の権力を行使し、その力を天下に示そうとします。
(明智光秀)
(豊臣秀吉)ウィキペディア(Wikipedia)
本願寺が天満に移ってわずか5年、天正19年(1591)1月末に秀吉から顕如に本願寺を京都郊外の淀か鳥羽辺りに移せと命じられます。ところが一月後には京都へ変わり、何と秀吉の気まぐれだっのか!?いずれにしても秀吉が本願寺を確実の支配下に置いておきたいという意図が見え見えです。
(京都)
京都の本願寺は七条堀川、今の西本願寺の寺域ですが、天満にあった寺内町の移転は認められず、本願寺を支えた寺内特権を持っていた寺内町を切り放し本願寺の力を削ぐ秀吉の意図が窺え、また、秀吉は関白の職責と威光を示し朝廷のある京都の都市計画の一環だったと言われています。それは秀吉が築いた聚楽第をはじめ散在する寺院を一か所に集め、聚楽第を囲む御土居と言われる土塁を築き、それは内裏と聚楽第の防衛するためのもので、本願寺が大坂から京都の入口にあたる七条堀川に置かれたのも防衛上の意図があったものと思われます。
(秀吉は関白になった天正13年(1585)7月、天皇の意向を受けた形で、全国の領主や大名に対して、所領や国境の紛争を武力で解決する事は私的な戦闘として厳禁し、その裁定は関白の秀吉に委ねる私戦禁止令(大名の平和令)を出し,受諾した大名については領土を認め地位を保障しました。この武力征服によらない平和統一政策が〈関東惣無事之儀〉などと標榜されたことから惣無事令と呼ばれました。)
(豊臣家の家紋)
天正19年(1591)12月、秀吉は関白を秀次に譲り、太閤と称し、翌天正20年(1591)3月、朝鮮出兵のため肥前(佐賀県)名護屋に着陣します。その年の11月(文禄元年)本願寺の顕如が急死し、教如が宗主を継ぐが、母親の妙春尼が「顕如は3男の准如を後継者に指名していた」と云い、事態は急転し紛糾します。
秀吉は、肥前名護屋より、教如に御朱印を発しています。その内容は教如を顕如の法嗣と認め、母親に孝行するようにと書かれていて、もちろん母親とは妙春のことで、秀吉は妙春に
も教如が本願寺門跡になることを告げる書状を送っています。ところが妙春と准如が秀吉を訪ね、顕如が生前書いた譲渡状を見せられたところ秀吉は心が動き、教如に過去の失態を責め、11ヶ条の条件をつけ10年後の准如の宗主の座を譲るように命じます。
(実如)ウィキペディア(Wikipedia)
教如は謹んで受諾しますが、側近の家老達が「譲渡状は捏造されたもの・・・」と意義を唱え、それを聞いた秀吉は、自分が乗り出した調停策に否定されたと憤慨し、「教如の10年も相成らん!!直ちに准如に宗主を譲るべし」と秀吉の激怒に触れた教如は身を引きます。この時教如は34歳、准如は17歳でした。
(西本願寺の主張では、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、父に背いて石山本願寺に籠もるなど父顕如と不仲で、信長の跡を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられ、最終的に教如や准如の母妙春尼が秀吉に頼み込んで三男准如の相続が実現した。とあります。)
この問題で最も重要なのは、本願寺の宗主を決めるのに、世俗の権力者秀吉にすがったことです。親鸞以来、その決定は宗門の内部で行われ、本願寺が門跡寺院になってからも、宗主を決めたあと朝廷に奏聞して、最終的に決定するという方法が取られてきたのは、あくまでも形式的なものに過ぎず、関白になったとはいえ秀吉に、宗主の決定権を委ねたことは、聖域の世俗権力を介在させ、本願寺がその支配下に進んで願い出、宗教の持つ自立・自尊の聖域性を自ら放棄します。
(准如)ウィキペディア(Wikipedia)
(今の西本願寺阿弥陀堂)ウィキペディア(Wikipedia)
(門跡寺院:皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。 寺格の一つ。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになりました。)
しかも如春や彼女を取りまく旧顕如派には、そのような意識にまったく気づかず、唯々、秀吉の威光にひれ伏すのみ、本願寺のこの世俗性が、秀吉没後、徳川幕府に介入を簡単に許し、易々宗教体制も政治の統制下に置かれることになります。
だからこそ!!現在まで生き残ったとも云えます・・・・!?
(つづく)
参考文献:「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村著 学研新書 2011年5月発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』